ヤマトタケルとオトタチバナの物語が今に残る、海上守護・墨田の「吾嬬の森」
[住所]東京都墨田区立花1-1-15
[電話]03-3612-4464

吾嬬神社(あづまじんじゃ)は、東京都墨田区立花にある神社。吾妻神社、 吾嬬権現社、吾嬬森稲荷神社などとも。御朱印の有無は不明。

関東地方に散らばる、日本武尊弟橘姫命の物語にちなむ神社の一社。

日本武尊東征の際に相模から上総へ渡ろうとして暴風に遭い、弟橘姫命が身を海に投じて暴風を鎮めたことから、日本武尊は当時浮き洲であった当地に上陸できた。

しかし、弟橘姫命は行方知れずとなり、その御召物がこの地の磯辺に漂い着いたので、これを築山に納めて吾嬬大権現として崇めたのが始まり。

御祭神は弟橘姫命、相殿に日本武命(日本武尊)を祀る。

その際、日本武尊が植えたとされる楠が御神木「連理の樟」で、相生の男木女木が日本武尊と弟橘姫命の不朽の愛を象徴しているとされる。歌川広重の『江戸名所百景』にも描かれている。

正治元年(1199年)に北条泰時が幕下の葛西領主遠山丹波守に命じて、神領として300貫を寄進した。

翌正治2年(1200年)、宇穂積臣の末葉である遠山を含む、鈴木・井出の三家が吾妻権現として社殿を造営したという。

嘉元元年(1303年)に鎌倉から真言宗の宝蓮寺を移して別当寺とした。奥宮と称される本殿の裏手には、狛犬が奉納されている。

樹木の下にあって磨滅が少なく、安永2年(1773年)の銘を持ち、築地小田原町(築地6・7丁目)、本船町地引河岸(日本橋本町)の関係者の奉納であることが分かる。

境内には吾嬬森碑がある。明和3年(1766年)に儒学者山県大弐により建立されたと伝わる。

「吾嬬の森」とは、当社の代表的な呼び名で、江戸を代表する神社の森の一つとされ、『葛西志』や『江戸名所図会』にも紹介されている。江戸七森、江戸廿一森の一つ。

明治43年(1910年)の大水や関東大震災、東京大空襲などにより森は失われたが、長く地域に根ざした森の伝承をこの碑は伝えている。

もともと海上守護の神であるところに、かつてはこの森が海上からの好目標であったことで、信仰がさらに広がったと思われる。

そして、吾嬬の森であるならば、吾嬬森稲荷社となり、一部では否定されている、太田道灌が江戸築城の際、方除け守護神として江戸周辺に七つの稲荷社を祀ったいわゆる道灌七稲荷の一社の可能性がある。

境内社に、福神稲荷神社がある。御祭神は宇賀之魂之命大国主之命金山彦之命。もとは亀戸4丁目地蔵川岸のほとりに鎮座していたが、大正11年(1922年)に当社内に遷座。

第二次世界大戦の災禍を受け、周囲の家屋や草木が焼け尽きる中で、この福神稲荷神社の社殿だけは奇跡的に被害がなかったために、今でも厚く信仰されている。

例祭は8月。稲荷福神祭が2月に斎行される。

【ご利益】
海上守護、交通安全、恋愛運、縁結びなど
吾嬬神社 - ヤマトタケルとオトタチバナの物語が今に残る、海上守護・墨田の「吾嬬の森」
【関連記事】
江戸七森とは? - 江戸期に神が宿る神社の森として崇敬された東京の七つの「森」と神社
道灌七稲荷 - 550年前に江戸城を築城した太田道灌が勧請・整備した、東京の七つの稲荷
東京都の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、東京都に鎮座している神社の一覧