将門の乱のきっかけとなった六孫王経基が勧請・創建した“知恵”の神
[住所]東京都新宿区下落合2-10-5
[電話]03-3951-3646 - 氷川神社

東山藤稲荷神社(ひがしやまふじいなりじんじゃ)は、東京都新宿区下落合にある神社。おとめやま公園の近くに鎮座し、「藤稲荷神社」「富士稲荷神社」とも。御朱印の有無は不明。

清和天皇の皇孫である源経基、いわゆる六孫王経基が、延長5年(927年)初午の日に京都稲荷山(現 伏見稲荷大社)より勧請したと伝わる。御祭神は、宇迦之御魂大神大宮能売大神佐田彦大神

ただし、経基が武蔵介として現地に赴任したのは、太政大臣・藤原忠平の治世下の承平8年(938年)であり、多少のずれがある。

当時平将門が反逆を企てた際、当社に神託があり、経基が調査したところ、その通りだったために、帝の許しを得て、これを平定した、と伝わる。

また、一説には、承平2年(932年)に謀逆を企てた将門に対して、経基は当社の神託によって上洛、六孫王と号し源姓を賜った。

翌年2月初午の夜、白狐三匹が当社に来て、我らこれまで将門に属していたが、将門の悪逆増長し、2月中旬に災いが起こることを知ったので逃れてきた、これからは当社の眷属となり永く守護せんことを願う、と言ったという。

社守がさっそく白狐三匹を山奥へ隠して食物を供え置いたところ、2月13日、将門は下総国島廣山に引き籠り、翌14日には卒島という所にて死亡して、藤原秀郷に首を取られたという。

史実としては、経基が将門の乱のきっかけを作る形とはなるが、襲われることを恐れて一時帰京、そこで将門謀反を朝廷に訴えるものの、一度は朝廷に却下され、讒言の罪で逆に拘禁される。

しかし、将門の勢力が拡大し、謀反になっていく中で、経基は名誉を回復し、むしろ昇格、将門討伐軍を率いて進発した。しかし、到着前に将門の乱は平定されていた。

将門ゆかりで、経基創建の由緒を持つのは極めて珍しいものの、乱平定に際しては、経基(つまり当社やその周辺)は主役ではなかったとみられる。

それでも、伝承の中には、当社が将門の乱当時、すでに大きな発言力を有するような神社であったこと、将門陣営に対する内部切り崩し工作などがあり、裏切り者が逃れてきたか、朝廷軍に味方したことが示唆されている。後述する御神徳も、“謀略”につながるようなものなのは偶然か。

ともかく、上記の経緯で、経基を始め、源家一族は守神として当社を深く崇敬された。経基自身は現在、京都の六孫王神社の御祭神として祀られている。

やがて時代の流れとともに、武家のみならず庶民の信仰も厚くなり、「知恵と勇気」を授けて下さる福徳の神として、その信仰は農商業、芸能方面と広く江戸市中関東一円に広がったという。江戸期の別当は最勝寺。

もとは現在地の坂下(下落合2-10-7付近、記念碑が建っている)にあったが、第二次大戦で焼失し、昭和28年(1953年)に現在地へ移転した。

『江戸名所図会』には旧社地での様子が図示されており、それによると堂舎もいくつかあり、かなりの規模の神社だったことがわかる。また、藤の大木があったため、それが社名の由来となった。

境内には文化15年(1818年)に奉納の神狐一対と、寛延3年(1750年)と天保9年(1838年)に奉納された二つの水鉢がある。

現在は東京都新宿区下落合の氷川神社の兼務神社となっている。

【ご利益】
「知恵と勇気」を授けて下さる福徳の神
東山藤稲荷神社 - 将門の乱のきっかけとなった六孫王経基が勧請・創建した“知恵”の神
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