歴代天皇が愛した和歌の浦、日本最高峰の和歌の神、鹽竃神社は安産の御神徳
[住所]和歌山県和歌山市和歌浦中3-4-26
[電話]073-444-0472

玉津島神社(たまつじんじゃ)は、和歌山県和歌山市和歌浦にある神社。近代社格では村社。参拝すれば、当社号のものと、「鹽竃神社」のもの、双方の御朱印を頂ける。

古来玉津島明神と称される、日本最高峰の和歌の神。現在は公式には玉津島神社・鹽竃神社と表記されることも。

御祭神は、稚日女尊息長足姫尊、衣通姫尊の三柱に、明光浦霊(あかのうらのみたま)を配祀する。住吉明神(住吉大社)、北野天満宮と並ぶ和歌三神の一柱として尊崇を受ける。和歌三神は、近世以降は北野社に代わって柿本人麻呂(柿本大神)となる。

玉津島は古くは「玉出島」とも称された。社伝によれば、第14代仲哀天皇の皇后息長足姫(神功皇后)が紀伊半島に進軍した際、玉津島神の加護を受けたことから、その分霊を祀ったのに始まるという。

その後、丹生都比売神として勧請。現在の丹生都比売神社である。後、神功皇后自身も合祀された。

神亀元年(724年)2月に即位した23歳の聖武天皇は、同年10月に和歌の浦に行幸してその景観に感動、この地の風致を守るため守戸を置き、玉津嶋と明光浦の霊を祀ることを命じた詔を発する。

これが玉津嶋の初見である。『延喜式神名帳』に記載がない式外社だが、それに先行する文献で確認できる、いわゆる国史見在社である。

この時同行した奈良時代の歌人山部赤人の詠んだ歌が『万葉集』巻第六(国歌大観番号919)に収録されている。
若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る
当時は島山があたかも玉のように海中に点在していたと思われる。明光浦霊については不詳だが、聖武の他、称徳・桓武天皇らに風光佳絶な玉津島はこよなく愛でられ、この三帝はこの地を訪れ滞在、いわゆる玉津島行幸である。

衣通姫尊は第19代允恭天皇の后で、和歌の道に秀でた絶世の美女、とする。『古事記』に登場する允恭天皇皇女とは別人、となる。第58代光孝天皇の夢枕に衣通姫が現れて和歌の浦の歌を詠まれたため、光孝天皇により当社に合祀された。

平安中期の歌人として名高い藤原公任も玉津嶋に詣でている。さらに、藤原俊成は後鳥羽院の信任を受けた当代歌壇の第一人者だったが、白河法皇の勅命を受けて『千載和歌集』の選者を務める過程で、当社を京都に勧請した。新玉津島神社である。

中世には、歌道の名家である飛鳥井家の雅永が、嘉吉3年(1443年)に「多年の宿願を果さむため」に玉津嶋に詣出ており、文明2年(1470年)には蹴鞠の名手でもあった甥の雅親が玉津嶋に詣出ている。

天正13年(1585年)に紀州を平定した豊臣秀吉も早々に玉津嶋に詣でている。この後、紀州に入部した浅野幸長により社殿の再興が図られ、徳川頼宣により本殿などの本格的な整備がなされた。

寛文4年(1664年)には、春秋2期の祭祀が復活している。現在、境内には頼宣が承応4年(1655年)に寄進した灯篭が残されている。近世に整備された玉津嶋神社は、和歌の浦の名所として巡礼をはじめ大勢の人々が詣で一帯は、和歌の浦の歴史的景観の核となった。

もともと当社の祓所だった鹽竃神社(塩竈神社)は大正6年(1917年)、独立した神社となり、海産物、安産の神として信仰されている。

毎年9月16日の式日に浜降り神事が行われていた。丹生都比売神社から、神輿に乗った丹生明神が、紀の川を下って当社へ渡御するもの。

この神事は、鎌倉時代以前から室町時代後期まで、中断を繰り返しながらも行われてきたが、江戸時代に丹生都比売神社境内での神輿の渡御という形態に変わった。現在も4月第3日曜日の花盛祭で行われており、その際は当社に遥拝する。

例祭は4月13日。

【ご利益】
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玉津島神社 - 歴代天皇が愛した和歌の浦、日本最高峰の和歌の神、鹽竃神社は安産の御神徳
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玉津島神社の御朱印