熊野皇大神社、往古から長野と群馬の県境、日本武尊と八咫烏の伝承
[住所]群馬県安中市松井田町峠1
[電話]0267-42-3490

熊野神社(くまのじんじゃ)は、長野県群馬県の県境にある神社。近代社格は県社日本三熊野の一社。参拝すれば、双方の御朱印を頂ける。

戦後の宗教法人登記として、群馬県にある方が熊野神社で、長野県にある方が熊野皇大神社。

当社は碓氷峠に位置し、社殿は長野県と群馬県の両県にまたがっており、参道と本宮の中央が県境にあたる。

本宮は伊邪那美命日本武尊、長野県側の那智宮は事解男命、群馬県側の新宮は速玉男命を祀る。

かつては長倉神社熊野宮または長倉山熊野大権現と称した。

そのため、『延喜式神名帳』にある「長倉神社(信濃国・佐久郡)」に比定される式内社(小社)の論社とされる場合がある。他の論社に、軽井沢町長倉に式内同名神社がある。

しかし、社地が信濃・上野の境界となり、単に熊野宮とするようになった。また碓氷神社、熊野大権現とも呼ばれたが、慶応4年(1868年)に熊野皇大神社に改称した。

第二次世界大戦後に宗教法人法が制定された際、都道府県ごとに宗教法人の登記がされることになったため、一つの神社でありながら、二つの別法人となった。

そのため、一つの神社だが、宮司や社務所、賽銭箱、お守り、ご祈祷は別々である。

社伝によれば、日本武尊が東征の帰路で碓氷峠に差し掛かった際、濃霧が生じて道に迷った。この時に一羽の八咫烏が梛の葉を咥えて道案内をし、無事に頂上に着いた。

これを感謝して、熊野の神を勧請したのが当社の創建。第12代景行天皇40年とされる。

日本武尊は碓氷峠の山頂から遠くの海を眺め、相模灘で荒波を静める為に海中に身を投じた最愛の妻、弟橘姫を偲び、「吾嬬者耶(アヅマハヤ。ああ、いとしき我が妻よ)」と三嘆したと伝えられている。

この故事から、この山を「長く悲しんだ山」と言うようになり、それがにごって、長倉山になり 軽井沢では、長倉の地名が多い。また日本武尊にちなんだ地名として霧積、吾妻、嬬恋がある。

江戸時代は中山道の要所にあることから賑わい、元禄8年(1695年)には越後高田藩主・松平定逵の通行の際に吉例祈祷をして初穂料として金100疋が奉納された。

また、上州で武術が盛んなことから各流派による額の奉納も多く、下記の奉納が確認できる。

・文政9年(1826年)に気楽流の飯塚臥龍斎
・天保2年(1831年)に真神道流柔術の片山庄左衛門
・弘化2年(1845年)に日置流弓術の酒井数馬

社家が両国に分れていたため争論が起き、寛文2年(1662年)に信濃側の神宮寺が上野国の社人に無断で国境を越えて小屋を設けたため、その取り消しを求める裁許が下された。

寛文4年(1664年)には下記の裁許状が出された。

・三所権現(本宮)は両国の社人が相談して守護する。
・新宮は上野、那智社は信濃の社人が守護する。
・本宮は両国の社人が1年交替で守護し、当番でない年でも神事や祭礼を勤める。

享保元年(1716年)には両国にまたがる権現の森の立木を伐採した社人が罰せられている。ただし、仲違いばかりでなく、宝暦年間(1751年-1764年)には両社家の間で通婚も行なわれていた。

境内にある御神木シナノキは県の天然記念物に指定されており、樹齢850余年と伝えられる。開運、縁結びのご利益があるとして信仰されている。

また、境内の端には碓氷川の水源があり、近隣の人々が飲料に用いてきた。

1月6日に特殊神事「御田遊の神事(おんたあそびのしんじ)」がある。例祭は10月15日。八咫烏の姿に扮し、舞う「からすの舞」の神楽が伝わっている。

ゆるキャラに「やたくまくん」がいる。

【ご利益】
開運、厄除け、導き、縁結び(公式HP
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