八幡神は応神天皇ではない - 九州で顕現したのだから九州と密接に繋がる“天皇”のはず
八幡神=第15代応神天皇というのが定着して1000年以上。今さらこれをほじくり返すつもりはないですが、日本の信仰という一本の筋を考えた時、

果たしてこれは正しいのか?

という疑問がどうしても離れません。完全に定着している、八幡神=応神天皇をひっくり返そう、と意図するものではなく、なぜ応神天皇に仮託されたのかを改めて考えてみる、という切り口で。

日本で最も祀られている神の謎

八幡神は、なぜ、日本で最も祀られている神なのか。稲荷神の方が多い、という指摘もありますが、まあ、日本最多の部類であることは間違いありません。

一般的には、武家政権を担った源氏の氏神となったため、ともされますし、石清水八幡宮は当時方々に荘園を持っており、そこに一々勧請したために膨大な八幡宮が全国各地に誕生したとも考えられるのですが、それだけではないような気がします。

また、応神天皇に付託されたのは後付けであり、もともとは渡来神だった、との説も多くの人によって説かれています。

それはそれでよいと思います。八幡神が九州発祥なのは間違いなく、九州は渡来色の強い土地柄、渡来の影響が全くない、と考える方がおかしな話。

しかし、それでも、それだからこそ、渡来神というだけでは、では、なぜ、日本で最も祀られている神になったのか、という疑問には答えられません。

そもそも、九州発祥の神が、日本で最も祀られている神になる、というのも不思議といえば不思議。上述の石清水八幡宮への勧請が大きかった、とは言え。

「譽田天皇」顕現を当時の朝廷が鵜呑みにした謎

では、なぜ当時の朝廷は、宇佐を大事にし、石清水八幡宮に勧請して、京で大々的な祭祀をしようとしてまで、八幡神を重視したのでしょうか。

これについてもいろいろ言われてはいますが、いまいちぴんと来ません。

そもそも、第29代欽明天皇32年(571年)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)が降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、
「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂、護国霊験の大菩薩」
との託宣があり、宇佐神宮の創建につながります。

「譽田天皇」といえば、ホムダワケの応神天皇、ということになり、奈良時代から平安時代にかけて、徐々に八幡神と応神天皇が習合していった、というのが定説です。

が、これは明らかにおかしい。

何がおかしいかといえば、なぜ、「譽田天皇」が宇佐の地に顕現したからといって、朝廷がこれを鵜呑みにし、「これは丁重に扱わなければ」と考えたのか、全く意味不明です。

「譽田天皇」はなぜ九州に顕現したのかの謎

通説の日本史を考えるのであれば(邪馬台国畿内説や、ヤマト政権は畿内発祥)、朝廷は九州とは無縁。その九州に、「譽田天皇」が顕れたから、慌てて重視する。こんなことがあるでしょうか?

仮に、ヤマト政権が、神武東遷の神話や邪馬台国九州説なども含めて、九州にゆかりがあったものだったとしても、やはり、「譽田天皇」が顕れたからといって、極めて丁重に扱う、というのも、九州で何があったのか、を考えなければ説明はつきません。

そもそもなぜ、「譽田天皇」は九州に顕現したのか?

これは、要は宇佐神宮が極めて重視され、現在も脈々と続く勅祭社となっていることとも、密接につながってくる問題です。

なぜ、宇佐神宮は重用されたのか?

もちろん霊験あらたか、神託の神、ということで崇敬を徐々に獲得した、ということはあるかもしれませんし、当時の政治情勢や、宇佐神宮の三家に林立した社家の事情もあったのでしょう。

しかし、そもそも畿内の政権がここまで入れ込むにはやはり裏があるはずです。全ての謎はここに集約されるような気がします。

応神天皇はホムダという名ではなかった

ヤマト政権が宇佐を重要視し、宗廟とまで考えるようになったのは、「譽田天皇」の顕現で度肝を抜かれたから、と考えざるを得ません。では、当時の朝廷は、「譽田天皇」を誰に、何に想定したのか。

通説のように(と言うか、顕現時点ですぐに結びついたわけではない、という説が濃厚ではありますが)、応神天皇だとすると、ヤマト政権は応神天皇の何にそんなに驚き、畏まったのか。

応神天皇は確かに九州生まれではありますが、言ってしまえばただそれだけ。その後、おそらくは生まれてすぐに九州を離れ、畿内に向かい、その後は基本的に九州と無縁。

世代にして14世代も経て、29代目の天皇の時代にいきなり応神天皇が宇佐に顕現して、当時の朝廷がビビる、というのはどうしてもしっくりきません。

応神天皇に対して、何か後ろめたいことがあったかと言えば、何もないでしょう。八幡神=応神天皇は、平安時代の桓武天皇とその周辺の画策、という説もあるようですが、八幡神を誰に比定するかよりも、八幡神はそれよりも数世紀前から重視されていたという事実の方が重要です。

そもそも、応神天皇は最初から「譽田」(ホムダ)という名ではなかった(可能性がある)のです。

「譽田天皇」は、応神天皇の“父”仲哀天皇?

『古事記』に明記されている、「名を交換した」天皇こそが応神天皇なのです。

この名の交換説話、色々解釈はされていますが、定説もなく、意味不明・謎、というのが正直なところなのではあるのですが、素直に考えれば、ホムダは交換した後の応神天皇の名前なのではないか、とも、読み取れます。

応神天皇が名を交換した神の名は、越前国一宮氣比神宮の御祭神イザサワケ、ということは間違いありません。

つまり、応神天皇の最初の名前はイザサワケ、イザサワケの最初の名こそホムダ(ワケ)の可能性があるわけです。

そして、イザサワケは、応神天皇の父とされる第14代仲哀天皇と同一視される場合がある、ということ。

つまり、宇佐に顕現した「譽田天皇」は、応神天皇にカモフラージュされた、実はその“父”である仲哀天皇、ということなのではないでしょうか。

九州で亡くなったことが確実な唯一の天皇

通説のように、「譽田天皇」が顕現してから、応神天皇に比定されるまで、数世紀を要しているのも、ある意味おかしい。「譽田」と言っているから応神天皇だろう、と、当時でもすぐに思いついてもおかしくないわけです。

仲哀天皇であれば、「譽田天皇」顕現を聞いた当時の朝廷がビビって、「宇佐はやばい」となり、宇佐への常軌を逸した崇敬につながる、その理由が、九州だからこそある、天皇なのです。

逆に言えば、仲哀天皇以外に、九州と結びついて、当時の朝廷が臆するような天皇はいませんし、そして、定説の応神天皇と極めて近しい関係の天皇でもあるわけです。

「天皇、九州で顕現」で最も、というか唯一、ピンとくるのは、応神天皇の父、元の名をホムダと言ったかもしれない、仲哀天皇だけなのです。

九州で亡くなったことが確実な唯一の天皇、それが仲哀天皇です。

その地は、仲哀天皇の皇居の一つである訶志比宮(かしひのみや)、つまり現在の香椎宮

現在も、宇佐神宮とともに10年に一度の勅祭が行われる、極めて由緒正しい神社です。正直、宇佐神宮ほどの知名度のない神社ですが、八幡信仰を考える場合、香椎宮こそが根源なのではないか、という気がします。

九州で暗殺されたかもしれない天皇

仲哀天皇は、現在の香椎宮において、暗闇の中で、妻である神功皇后が神懸りしている時に、重臣の建内宿禰を含めたわずか3人しかいない空間の中で急死しています。

神が憑依した神功皇后(の口)が「海を渡れ」と言ったのに対して、仲哀天皇は「やなこった」ぐらいな態度を取った、直後の話です。

もうこれは、明らかに殺人、暗殺でしょう。ここでは、犯人については触れません、というか、実行できたのは2人に限られてしまいますが。

動機も明確。神功皇后らが何らかの事情で実行したかった三韓征伐に、時の最高指導者が異を唱えたわけですから。一方にとっては、計画がとん挫しかねない切羽詰った状況。

その後神功皇后は身重にもかかわらずアマテラス住吉三神の力を借りて、三韓征伐を成功させて凱旋、九州で後の応神天皇となる御子を出産します。

畿内で起きた反乱を制圧しつつ、畿内に凱旋。その後、その御子が建内宿禰とともに越前に行き、“イザサワケ”と名を交換する、ということになるのです。

強烈な個性光る神功皇后が健在の時はまだよいし、それからしばらく、応神天皇(第15代)、仁徳天皇(第16代)と長期かつ有力な天皇が続いている間は問題なくとも、その後、雄略天皇(第21代)、継体天皇(第26代)という傑出した天皇は出るものの、何か安定しないな、という感じのする時代。

それが八幡神が顕れたとされる欽明天皇(第29代)の時期です。

八幡神の本質は仲哀天皇だった

九州で“天皇”が顕現した、と聞けば、普通に考えて、畿内の当時誰もが仲哀天皇をイメージしたはずです。そして、その怨霊を恐れる後ろめたさも十分に持っています。当然、暗殺された、という伝承は当時の朝廷の中枢には残っていたでしょうし。

これは丁重に祀らなければ祟りになる。顕現した宇佐は特殊な地なのだろう、そして死地となった香椎宮もあわせて丁重に祀ろう。

こうした思考が、宇佐神宮と香椎宮という、現在でも九州でわずか二社しかない勅祭社につながったのではないでしょうか。

つまり、八幡神の本質は仲哀天皇だった。

しかし、それをあまりにも前面に押し出すと、負の歴史やイメージが顕著になりすぎるので、「譽田天皇」といえば、普通は応神天皇だし、応神天皇に仮託しよう。

近代になって、宇佐神宮と香椎宮の勅祭は10年に1度と決まったのも、重要だから勅使を参向させないわけにはいかないが、毎年では目立ちすぎるし、その重要度が際立ちすぎ。10年に1度ならば、御祭神にとっても忘れられていないことを確認できる適度な間隔、と考えられたからかもしれません。

明治政府は霊的な側面を極めて重視する政府です。“近代”とは程遠い面があることには留意したいところです。そうした新政府が、このあたり、敏感に反応したのかもしれません。

隠したかった本質は、いずれ明るみになった

ともかく、宇佐神宮では、応神天皇、神功皇后、宗像三女神が八幡神となり、筥崎宮では、応神天皇、神功皇后、タマヨリの三柱が八幡神となります。

なぜか、仲哀天皇の存在を消すように消すように。

八幡神は仲哀天皇と関係ないのですよ、と主張するように。そしてその思惑は現在でも一部に言われている、八幡神の仲哀天皇軽視論にもつながっています。

しかし、時代が下るにつれて、全国各地に勧請された八幡宮のうちでも、仲哀天皇を祀る神社が増えてきた。今現時点でも八幡宮は実は決して、仲哀天皇を軽視していないのです。八幡宮で仲哀天皇を祀っている神社は思いのほか多い。

しかしそれは、八幡神の本質が明るみに出た、というよりは、

応神天皇、神功皇后を祀っているのに、それぞれの父であり夫であって、しかも不幸にも総本社たる宇佐神宮もある九州で急死された仲哀天皇を、丁重に併せて祀らなければ、おかしくない?

という発想が、いつかの時期から出てきたのではないでしょうか。本質云々は別の切り口ながら、古今問わず、日本人として、極めて自然な発想です。

八幡神顕現から応神天皇への定着まで、隠してきた仲哀天皇の影が、結局は、やはり日本の信仰と密接にかかわりながら“再顕現”した、ということなのではないでしょうか。

八幡神の武神としての性質について

一方で、八幡神は武神的な性格もあるとされます。これは、武家である源氏が氏神としたことにより、後になって付された性質とも考えられますが、そもそも武家である源氏が氏神にしたのだから、八幡神に元々そうした性質がなければ、その神を選択しないでしょう。

では、応神天皇に“武”の要素はあるか? 正直あまりありません。
では、仲哀天皇には? これは結構“戦う天皇”です。

『古事記』にはあまり記載されていませんが、他の記録を読めば、遠征に次ぐ遠征、各地の征討作戦に積極的で、九州で急死したのも、九州遠征の途中だったため。

在位9年で一体何年都にいたのだろう、というぐらい、外征に明け暮れていた、逆に言えば、極めて精力的な方だった。そんな方の急死、というのだから、これはこれは。。

石見神楽には「塵輪」という演目があります。これは仲哀天皇が主役で、武勇を発揮して悪鬼を退治する、激しい動きのある神楽です。

石見神楽は古いとはいえ、断絶がありながらも、遡れて中世・室町期ぐらいなので、新しいと言えば新しいかもしれませんが、ではなぜ仲哀天皇の大活劇の演目が生まれたのか、興味深いところです。

そして、異国の王の名であるこの塵輪による襲撃を返り討ちにしたという伝承は、今でも、仲哀天皇のもう一つの皇居である豊浦宮跡に鎮座する忌宮神社(山口県下関市、主祭神はもちろん仲哀天皇)の神事・数方庭祭として伝わっています。

忌宮神社(=仲哀天皇)は、まさに勝運の神でもあります。

こうした“戦う天皇”という側面に、八幡神の本質が仲哀天皇だと知っていた源氏が魅かれ、氏神とした理由の一つとなっていたとしたら。

非業の死を遂げた“戦う天皇”ならば、その霊験も大である、と考えられたのかもしれません。

仲哀天皇は、かの非業の死を遂げた英雄ヤマトタケルの子

“戦う天皇”は海を越えられず、半島・大陸には渡れなかった。だから逆に八幡神は、新羅から来た、とか、中国から来た、とか、様々な伝承が語られるようになったのではないでしょうか。いわゆる渡来神説です。

また、三韓征伐を結果的に反対したことになる“戦う天皇”は、新羅有利の判断をした、ということにもなるわけで、半島・大陸を守護した神という地位も与えられたのかもしれません。

そして、仲哀天皇はかのヤマトタケル(第12代景行天皇皇子)の子。外征に明け暮れる、という意味では、親子そっくり。

仲哀天皇の急死は、いわばヤマトタケル一族にとっても大きな痛手であり、恨みつらみが生じやすく、実際様々なことがあったかもしれません。

ただでさえ、ヤマトタケルも非業の死を遂げています。後世の、怨念を恐れる高貴なる方々が、こうしたヤマトタケル一族を放っておくわけにはいかないのです。

ちなみに、ヤマトタケル架空説が定説のようです。そして『日本書紀』によれば、仲哀天皇は、父ヤマトタケルの死から36年後の生誕という計算になり、やはり仲哀天皇架空説もあります。

まあ、建内宿禰も少なくとも第13代成務天皇の頃から第16代仁徳天皇の頃まで、『日本書紀』を信じれば250年ほど活躍してはいるのですが。建内宿禰についても唱えられている、“名”を受け継ぐ慣習が当時あった、ということなのかもしれません。

暗殺され、血筋も途絶えたかもしれない仲哀天皇

ともかく、架空であろうがなかろうが、辻褄が合おうが合わなかろうが、非業の死を遂げた、高貴な父子が確かにいた、と、『古事記』には明記されているわけです。

そして、もしかすると、これが一番大きいですが、応神天皇は、本当に仲哀天皇の子なのだろうか、ということです。

これ自体はよく言われていることです。神功皇后は急死した仲哀天皇の子を宿し、生まれないよう腰に石をあてて、三韓征伐を行った、という点。

これはさすがに、ホントありえないですよね。長寿すぎる人が、実は何世代かに渡って名を共有していた、という解釈ができる余地があるのとは違い、そんなんで出産時期を調整できるわけがありません。

(後の)応神天皇は生まれた、けど、仲哀天皇の急死の時期から数えれば、仲哀天皇が父ではないことが分かってしまう。だから“石”の伝説を作って、辻褄を合わせた。

そもそも仲哀天皇の生誕時期、そして実在性ですら危ういのに、なぜ“ここだけ”このような伝説ができたのか。

記紀編集者は、ヤマトタケル―仲哀天皇の父子関係の36年間の断絶はスルーしてもよかったが、神功皇后の出産譚はせいぜいわずか数カ月の遅れのはずなのに、何とか辻褄合わせをしようとした、ということになります。

これは、疑わしい。

もし、応神天皇が、仲哀天皇の子ではなく、別の男と神功皇后の間の子であれば、仲哀天皇の血筋は確実にここで途絶えてしまった、ということになります。

仲哀天皇の本当の(確実な)皇子2人香坂王忍熊王は、仲哀天皇の急死と三韓征伐後、神功皇后-建内宿禰ラインに滅ぼされています。

応神天皇が“名”を交換した、というのは、仲哀天皇との継続性の担保、という側面もあったのかもしれません。

しかし、もしそうであれば、これは極めて大変なことです。

暗殺されたかもしれないし、香坂王・忍熊王という血筋も完膚なきまでに抹殺してしまったし。

実は仲哀天皇は日本最大の怨霊の一人

状況から考えれば、実は、仲哀天皇は日本最大の怨霊の一人、になっても、全くおかしくない御仁なのです。仲哀という漢風諡号も悲哀が漂います。

このお方がなぜ、重要視されなかったのか? はっきり言ってしまえば、軽視され続けたのか?

現在の一般の日本人で、仲哀天皇という天皇を知っている人はごくごく少数のはずです。特に戦後は。

いやいや、軽視されてきたわけではなかったわけです、昔も今も。

実は、古くから仲哀天皇は日本最大の神になっていた。

気の遠くなる長い年月、日本国民のほとんど全員に、と言っても過言ではないほど多くの人に慰霊され、鎮魂され続けている、そう、八幡神として。

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