家康入府とともに摂津佃からの移住者による江戸佃の守護神
[住所]東京都中央区佃1-1-14
[電話]:03-3531-3500

住吉神社(すみよしじんじゃ)は、東京都中央区佃にある神社。地名を取って、佃住吉神社とも。参拝すれば、御朱印を頂ける。

江戸名所図会』にも記載され、近代社格では郷社。下町八福神の一社。

御祭神は、底筒之男神中筒之男神表筒之男神住吉三神)、息長足姫命(神功皇后)、東照御親命(徳川家康)。

天正年間(1573年-1592年)、徳川家康が上洛し、摂津国西成郡佃村(現 大阪市西淀川区佃)にある住吉神社(現 田蓑神社)に参詣。

その際、佃村と、近隣の大和田村(現 西淀川区大和田付近)の漁民が神崎川に渡し船を出して家康一行を運び、白魚などを献上した。

これを機縁として、以後、両村の漁民は家康から西国海上隠密の用を受けたり、大坂の役の際には軍船や魚の調達をするなどした。また、家康は両村の漁民に対し、恩賞として全国での漁業権を与えた。

天正18年(1590年)、家康が関東下降の際、佃村と大和田村の漁夫33人と神主・平岡権大夫好次が江戸に移った。

江戸時代前期の正保2年(1645年)には江戸鉄砲洲向かいにある百間(約180メートル)四方の干潟を幕府から下賜された。

漁夫らがこれを埋め立てて築島し、永住することになった。この島を故郷の摂津国佃村にちなんで「佃」(島は「佃嶋」、村は「佃村」)と命名した。

この移住者が同時に遷したのが弥都波能売命で、後に大市場交易神となり、現在は神田神社の境内に本殿があり、築地市場にその遥拝所がある。区内日本橋本町の常盤稲荷神社に遷座したこともあった。

ともかく、正保3年(1646年)には、息長足姫命と東照御親命の分霊を奉遷し、摂津国佃の住吉神社の住吉三神とともに祀る、当社が創建された。

元禄7年(1694年)には、佃嶋(現 佃一丁目)に居住する男子からなる講組織「佃嶋氏子中」が河上正吉らによって結成され、その後、幾多の火災風災に見舞われながらも、氏子信者の結束によって近現代に及ぶ。

明治時代には、月島と新佃島、昭和時代には晴海と豊海が埋め立てられた。

また、人足寄場や監獄として利用されていた石川島(別称:森島、鎧島)が、明治29年(1896年)5月に監獄移転に伴って工業・居住の地となり、これらを含めた全島が氏子中に編入された。

昭和22年(1947年)には、講組織「佃嶋氏子中」が「佃住吉講」と改称し、各町会・連合睦会と協力して、3年に一度の例祭(神幸祭)を執り行うようになる。

獅子頭宮出し、宮神輿宮出し、古から行われていた神輿の海中渡御と船渡御は昭和37年(1962年)に廃止された。

しかし、平成2年(1990年)には28年ぶりに船渡御が復活し、現在でも例祭中最も重要な行事の一つとされている。

特に、当社が所有する神輿は関東では珍しい八角形のものであり、「八角神輿」「八角」などと呼ばれている。

また、古来、この祭りの際には江戸城からも見えるとまで言われた、高さ20メートルに及ぶ6本の大幟が佃島に立つ。

御旅所が勝どき四丁目(最初の所在地は勝どき二丁目)に、分社が江東区牡丹町(旧 佃町)と晴海にある。

境内社に龍神社・稲荷神社・船魂神社・疫神社・疱瘡神社などがある。近くの森稲荷神社や、於咲稲荷神社・波除稲荷神社は佃住吉講により管理されている。

境内の鳥居に格式高く飾られている陶製の扁額に見える文字は有栖川宮幟仁親王の筆による。水盤舎とともに、この陶製扁額は、区の民有形文化財に登録されている。

【ご利益】
交通安全、海上守護・漁業安全の神
住吉神社(東京都中央区) - 家康入府とともに摂津佃からの移住者による江戸佃の守護神
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住吉神社(東京都中央区)の御朱印