貞観5年の日本初の御霊会、その六所御霊と、和魂・荒魂の八所御霊を祀る
[住所]京都府京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町
[電話]075-231-3530

下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)は、京都府京都市中京区にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

上御霊神社が正式名称を御霊神社とし、当社に対する通称であるのと違い、当社はこれが正式名称である。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 愛宕郡「出雲井於神社」に比定される式内社(大社、月次・相嘗・新嘗)の論社。近代社格では府社

桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊の祟りであると、対外的な公表がやむを得ない状況になったと思われる貞観5年(863年)5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催された。

この時に慰霊された御霊は、崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(藤原吉子)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文室宮田麻呂)、観察使(藤原仲成もしくは藤原広嗣)で、六所御霊と呼ばれている。

この御霊を改めて祀った神社を創建したのが当社の起源と考えられている。式内社であれば、貞観5年の御霊会より遅れること、最大で数十年とみられる。

公式サイトでも「(貞観5年の御霊会)のころ」として、明記は避けている。

御祭神は吉備聖霊(六所御霊の和魂)、崇道天皇(桓武天皇の皇太子、早良親王)、伊予親王(桓武天皇の皇子)、藤原大夫人(伊予親王の母、藤原吉子)、藤大夫(藤原広嗣)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文屋宮田麻呂)、火雷天神(六所御霊の荒魂)。相殿に天中柱皇神・霊元天皇を祀る。

上御霊神社と比べて、貞観5年の御霊会の六所御霊をほぼそのまま踏襲し、二柱を加えている点、吉備聖霊は吉備真備ではないと明確に否定している点に違いがある。

つまり、上御霊神社と比べて、吉備真備ではなく、六所御霊の和魂を祀っている点が異なる。

元は出雲路の上御霊神社の南にあったことから現社号が定着したと伝えられる。後に新町出水に移され、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の都市整備にともない現在地に遷座した。

明治までは神輿迎が7月18日に御霊祭は8月18日に行われていたが、明治以降は5月1日が神幸祭、18日が還幸祭と改められ、8月18日は例祭日と定め東遊が奉奏される。

現在では還幸祭は5月の第3か第4日曜日に行われており、宵宮では地域の小学校と連携した子供神輿も催されている。

境内社に、神明社(天照大御神・豊受大神)、八幡社(八幡大神)、春日社(春日大神)、猿田彦社(猿田彦大神。相殿に山崎闇斎、柿本人麻呂を祀る)、稲荷社(稲荷大神)、天満宮社(北野大神)、宗像社(田心姫命湍津姫命市杵島姫命)、五社相殿社(日吉大神・愛宕大神・大将軍八神・高知穂神・斎部神)がある。

このうち、天満宮社は菅家天満宮とも呼ばれ、『都すゞめ案内者』(宝永5年(1708年)ごろ)に記載された「天神順参二十五ケ所」の「下御霊天神」に相当し、洛陽天満宮二十五社順拝の一社となっている。

なお、式内社「出雲井於神社」の論社は他に、賀茂御祖神社の境内摂社である出雲井於神社井上社(御手洗社)、上御霊神社がある。

【ご利益】
疫病災厄の退散、朝廷と都の守護神(公式HP
下御霊神社 京都府京都市中京区
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下御霊神社の御朱印