縁切り縁結び碑で有名な「悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所」、御守の郵送も
[住所]京都府京都市東山区東町大路松原上る下弁天町70
[電話]075-561-5127

安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう)は、京都府京都市東山区にある神社。近代社格では郷社。「安井のこんぴらさん」で知られ、「悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所」。京都のパワースポットの一つである縁切り縁結び碑(いし)で有名。参拝すれば、御朱印を頂ける。

御祭神は、崇徳天皇(すとくてんのう)、大物主神(おおものぬしのかみ=オオモノヌシ)、源頼政(みなもとのよりまさ)。もともとは、崇徳上皇の説話から、断ち物の祈願所だったが、悲恋の舞台ともなったこともあり、悪縁切りが定着した。

藤・山吹の名勝の地であり、天智天皇の治世に藤原鎌足が当地に藤原家一門の繁栄を祈願した仏堂を建立し、藤を植樹して藤寺と号した。崇徳天皇は藤寺の藤を愛でるとともに、寵愛した阿波内侍を住まわせて、たびたび御幸した。

崇徳上皇は讃岐国に流刑になった後、阿波内侍に自筆の尊影を下賜した。崇徳上皇が讃岐国で崩御すると、悲嘆にくれた阿波内侍は出家して尼になり、崇徳上皇の自筆の尊影を藤寺観音堂に奉納して、日夜ひたすら勤行した。

治承元年(1177年)、崇徳上皇の自筆の尊影が奉納された藤寺観音堂に大円法師が参拝した際、崇徳上皇の霊が現れたことから、後白河法皇の詔によって建治年間(1275年-1277年)に光明院観勝寺が建立されたのが当宮の起こり。

光明院観勝寺は応仁の乱の戦渦で荒廃したが、明応6年(1497年)に住持の幸盛が御影堂(現在の崇徳天皇御廟)を再興し、崇徳上皇を慰霊。元禄8年(1695年)に太秦安井(現在の京都市右京区)の蓮華光院(安井門跡)が移建されると、光明院観勝寺はその管下になった。後代になって、光明院観勝寺は廃絶。

光明院観勝寺建立の際に、金毘羅権現・源三位頼政を合祀したとも。ただし、源頼政が合祀されたのは、安井門跡の初代である道尊僧正が高倉宮以仁王の遺児であったためと考えられているので、源頼政の合祀は蓮華光院の移建後と思われる。

観勝寺からの流れを汲むと思われる境内社の天神は、北野天満宮所蔵『日記』(文政6年(1823年))に記載された「洛陽二十五社順拝」において、安井御境内の綱敷天神として記される洛陽天満宮二十五社順拝の一社と考えられる。

明治維新の神仏分離(神仏判然令)により、蓮華光院は廃され、安井神社に改組された。併せて御祭神の金毘羅権現は、大物主神に改められた。明治6年(1873年)には村社に列し、更に明治15年(1882年)に郷社に昇格。第二次世界大戦後、現社号となり現在に至る。

5月10日が春季金比羅大祭で、「縁切り縁結び碑」前庭に護摩壇を設け、氏子崇敬者の願いが書かれた護摩木を焚き上げ、諸願の成就を祈願する。

9月第4月曜日の櫛まつりでは、時代風俗行列巡行が行われる。

10月1日-10月10日が秋季金比羅大祭で、神幸祭では御祭神の御神霊が乗った御鳳輦と宝船を模した花車が氏子町内を渡御する。

「悪縁切御守」「えんむすび御守」は郵送による授受が可能(参考)。

幸神社福長神社とあわせて、縁切りの三社めぐりが行われる。必ず、1.当宮、2.幸神社、3.福長神社の順で回らなければならないとされる。当宮ではなく、野宮神社で、幸神社、福長神社の組み合わせであれば、縁結びの三社めぐりになるという。

【ご利益】
あらゆる悪い縁を切り、良縁を結ぶ、海上安全、交通安全(公式HP
安井金比羅宮 - 縁切り縁結び碑で有名な「悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所」、御守の郵送も
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安井金比羅宮の御朱印