【日刊】日本の城
名称:大洲城(おおずじょう)
別称:比志城、地蔵ヶ嶽城、大津城

史跡:県の史跡
国宝:-
重文:台所櫓・南隅櫓・高欄櫓・苧綿櫓

住所:愛媛県大洲市大洲903
電話:0893-24-1146
日本100名城:第82番
  - スタンプ:台所櫓入口(大洲城内入口)

大洲城(おおずじょう)は、伊予国(今の愛媛県大洲市)にあった日本の城である。天守の築造年は1609年、構造は複合連結式層塔型(非現存)。2004年に木造で復元された。主な築城者は宇都宮豊房で、主な改修者は藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰である。

この地に初めて築城したのは、鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房で、元徳3年(1331年)のことであるといわれている。

豊房には子がなく、筑後宇都宮氏の宇都宮貞泰の子の宇都宮宗泰を養子に迎え、宇都宮氏はその後、国人として二百数十年間にわたって南伊予を中心に支配を行うが、永禄(1558年-1570年)の末期に毛利氏の伊予出兵によって降伏した。

宇都宮氏は、天正(1573年-1593年)初年に土佐の長宗我部元親と通じた家臣の大野直之によって大洲城を追われた。

しかし天正13年(1585年)にはその大野直之も豊臣秀吉の意を受けた小早川隆景によって攻め滅ぼされ、その小早川隆景が35万石で伊予に入封、大洲城は一支城となった。

その後戸田勝隆が城主として入ったが、文禄4年(1595年)に藤堂高虎が入城すると近世の城郭として整備され、慶長14年(1609年)には淡路の洲本から脇坂安治が入城、この2人の時代に天守をはじめとする建造物が造営された。

また脇坂安治の時代に従来の「大津」から現在の「大洲」に城名が変更されたという。

元和3年(1617年)に伯耆米子から6万石で加藤貞泰が入り、以後加藤氏が12代に亘り大洲藩主として治め明治維新を迎えた。

維新後は城内のほとんどの建築物は破却されたものの、地元住民の活動によって本丸の天守・櫓は一部保存された。しかし天守は老朽化と構造上の欠陥のために明治21年(1888年)に解体された。

平成16年(2004年)、主に市民による寄付によって、往時を出来る限り忠実に復元した4重4階の天守が完成した。

人柱伝説が伝わる。川に面した高石垣の工事が難航したため、人柱を立てる事となり、くじによって「おひじ」という若い女性が選ばれ、おひじはやむなく生き埋めにされ人柱となった。

その後、工事は無事完了し、おひじの最期の願いにより、大洲城下に流れる川を肱川(ひじかわ)と名付け、大洲城を「比志城」とも呼んだという。

日本の歴史公園100選に「城山公園」として選ばれている。
大洲城 伊予国(愛媛県大洲市) - サムネイル写真
【関連サイト】
大洲城 - 大洲市観光情報 - 大洲市ホームページ