日露戦争で戦没した橘周太陸軍中佐を祀る、長崎の花見・初詣の定番
[住所]長崎県雲仙市千々石町己529
[電話]0957-37-2538

橘神社(雲仙市)(たちばなじんじゃ)は、長崎県雲仙市千々石町にある神社。地元出身で日露戦争に従軍、遼陽の戦いで首山堡高地にて戦没した橘周太陸軍中佐(没後昇進)を祀る。昭和15年(1940年)の創建。参拝すれば、御朱印を頂ける。

橘周太(たちばな しゅうた)は、慶応元年9月15日(1865年11月3日)に庄屋城代季憐(格橘季憐とも)の二男として長崎に生まれる。勝山小学校、長崎中学校、二松学舎を経て1881年(明治14年)、陸軍士官学校幼年生徒に合格する。

以後軍人の道を歩み、東宮武官、歩兵第36連隊中隊長、名古屋陸軍地方幼年学校長を歴任し、1904年(明治37年)の日露戦争開戦にあたっては新設の第2軍管理部長に任命される。

同年8月には歩兵第34連隊第1大隊長に転出し首山堡の攻撃にあたるが、その戦闘で死亡し、同日付で陸軍歩兵中佐に進級し、勲四等旭日小綬章及功四級金鵄勲章を賜った。

生前は長崎中学から漢学塾二松学舎出身ということもあり、漢詩をよくしたため、名古屋陸軍幼年学校校長時代は自ら教壇に立ち漢文を弁ずることもある教育熱心な軍人であった。

橘家は、第三十代敏達天皇の皇子である難波皇子の玄孫(曾孫とする説もある)橘諸兄の子孫で、鎌倉時代末期の武将楠木正成は同族。

正成の弟正氏が和田を名乗り、その子孫和田義澄が肥前国島原領千々石村(後の長崎県雲仙市)に移り城代を名乗る。周太も初め城代であったが、兄の常葉の代から橘とする。

周太の死後彼を慕う者が集い、明治45年(1912年)銅像建立建設委員会が組織され、大正7年(1919年)に銅像が建立された。当社も、彼を祭神として祀る神社の創建気運の中から生まれ、昭和3年(1928年)に具体的な活動になる。

途中一時期中断していたが、昭和12年(1937年)に神社創建が許可され、昭和15年(1940年)5月、鎮座祭が執り行われた。周太の長男で陸軍大尉だった橘一郎左衛門(陸士26期)が当社の宮司に就任した。

また、周太の死後、歩兵第34連隊は橘連隊の通称ができ、それは同じ駐屯地の同じ番号の陸上自衛隊第34普通科連隊にも受け継がれている。周太は長崎県護国神社でも英霊として祀られている。

年末になるとギネスブックにも認定された「世界一の門松」が登場。高さ約11メートル以上の巨大門松が明け方までライトアップされ、荘厳な雰囲気の中で新しい年を迎えられる。

長崎県内では、諏訪神社(長崎市)に次いで二番目の正月参拝者数を誇る。神社の背後には菅原道真公を祀った天満神社や境外ではあるが釜蓋城跡ある。毎年1月の大寒の日に近くの千々石川で寒中みそぎが行われる。

春には約1000本の並木桜が参道をトンネルのように連なり、多くの客で賑わう花見の名所でもある。また敷地内には周太の生家の一部、橘中佐遺徳館が移築されている。

【ご利益】
国家鎮護、家内安全、学業成就、縁結び、厄除け祈願、交通安全など
橘神社(雲仙市) - 日露戦争で戦没した橘周太陸軍中佐を祀る、長崎の花見・初詣の定番
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橘神社(雲仙市)の御朱印