鎌倉・南北朝期の二領の国宝の鎧を所蔵する南部総鎮守「南部一ノ宮」
[住所]青森県八戸市八幡八幡丁3
[電話]0178-27-3053

櫛引八幡宮(くしひきはちまんぐう)は、青森県八戸市八幡にある神社。近代社格では郷社。境内は「八幡山」と呼ばれ、樹齢100年以上の老杉が立ち並ぶ。参拝すれば、御朱印を頂ける。

御祭神は八幡大神。当社は誉田別命(第15代応神天皇)を単独で祀る。

仁安元年(1166年)に加賀美遠光が甲州南部庄(現山梨県南部町一帯)に八幡神を勧請して創祀。緋威の鎧を殿内に納めたという。

以来、鎧とは縁が深く、鎌倉時代の大鎧である赤糸威鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)と、南北朝時代の大鎧である白糸威褄取鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)を所蔵、いずれも国宝に指定されている。

現在もオリジナルの御朱印帳はこの国宝である鎧をあしらったものとなっている。

文治5年(1189年)の奥州合戦で戦功をたてたその息子・南部光行(南部氏の始祖)が糠部五郡(八戸・三戸・下北・鹿角・下北)の領地を任され、建久2年(1191年)に入部した折、六戸の瀧ノ沢村に社殿を造営して南部庄から八幡宮を遷座。さらに貞応元年(1222年)に櫛引村の現在地に遷座したという。

社伝『櫛引八幡宮縁起旧記』によれば、瀧ノ沢村への遷座に際しては津島平次郎という家臣が甲州へ遣わされ、同村に仮宮を営んだのも同人であったことから、その子孫である滝沢家が「鍵守」として祭祀に預かるようになったという。

また南部庄八幡宮の別当職であった宥鑁(ゆうばん)という僧も遷座に供奉し、当地に来住して普門院を開創、以後別当寺院として鍵守とともに祭祀を掌ったという。

なお『櫛引八幡縁起』に、櫛引村には大同年間(806年-810年)に坂上田村麻呂が創祀したという八幡宮の小社が鎮座していたため、それと合祀したものともしている。

その後は南部の総鎮守と崇められ、「南部一ノ宮」とも称された。

建武年間(1334年-1336年/1338年)に三戸南部家が衰退すると、当時陸奥国の国司代理として下向し、根城を築いた南部師行(根城南部氏四代目)が再興して南部氏の祈願所とした。

秋季大祭は旧暦の8月14日から16日の3日間に行われ、流鏑馬の神事や様々な芸能が奉納される。中でも流鏑馬は、根城南部氏の師行の再興によって、領内安全・子孫繁昌・武運長久を祈願して奉納されたのが起源であるという。

師行の子孫である根城南部氏十代目の光経が応永18年(1411年)に秋田へ出陣するに際して戦捷を祈願し、八戸へ凱旋すると陣中で着用した具足と着替の2領、長船幸光の太刀、乗馬の青毛と替馬の鹿毛の馬2匹を奉納し、同年8月15日の大祭には盛大な流鏑馬の神事を斎行したという。

また、流鏑馬の乗り手を「役者」と称すが、この年からは根城南部氏と共に七戸南部氏も参加するようになり、以来役者を勤める者は三戸、八戸(根城)、七戸の三南部家から出ることとなり、その慣例が幕末まで続いた。

かつては、勤仕する役者が神社へ参拝する時には不浄のものを踏まないように高足駄を履いたり、当日の朝は役者が参拝するまでは一般の参詣を許さないなどの決まりがあったという。

なお、現在の流鏑馬は明治以後に中絶していたものを、社前に新しく馬場を設けて昭和59年(1984年)11月7日に復興したもの。遠野南部流鏑馬で、8月には当社で、9月には遠野郷八幡宮で行われる。

また、5月14日のお浜入り神事は、神輿が小中野の御前神社に渡御する神事。

境内社に神明宮(御祭神:天照皇大神)、春日社(御祭神:天津児屋根神)がある。これらの境内社の本殿二棟と、当宮の本殿、正門(南門)、長所(旧拝殿)の五棟が国の重要文化財に指定されている。

上記国宝の他、いずれも南北朝時代のものである紫糸威肩白浅黄鎧(兜、大袖付)、唐櫃入白糸威肩赤胴丸(兜、大袖付)、兜(浅黄糸威肩赤大袖2枚付)がやはり国の重要文化財に指定されている。

当宮へのアクセスとして、国道104号線より当宮へ通じる道路が拡張され、大型バスも余裕をもって進むことができるようになった。大型駐車場も完備されている。

【ご利益】
学業成就、合格祈願、安産祈願、厄祓(厄除け)、無病息災、家内安全など(公式HP
櫛引八幡宮 - 鎌倉・南北朝期の二領の国宝の鎧を所蔵する南部総鎮守「南部一ノ宮」
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