【日刊】日本の城
名称:高松城(たかまつじょう)
別称:玉藻城

史跡:国の史跡
国宝:-
重文:北の丸月見櫓・水手御門・渡櫓、旧東の丸艮櫓、披雲閣

住所:香川県高松市玉藻町2−1
電話:087-851-1521
日本100名城:第77番
  - スタンプ:高松城東・西入口の2か所

高松城(たかまつじょう)は、讃岐国(今の香川県高松市)にあった、江戸期には高松藩の藩庁などにも機能した日本の城である。日本三大水城の一つ。築城年は1590年(天正18年)、廃城年は1869年(明治2年)。天守の築造年は1669年、独立式層塔型3重4階地下1階(非現存)。主な築城者は生駒親正で、主な改修者は松平頼重、松平頼常である。

1587年(天正15年)、生駒親正が讃岐国17万6000石の大名に封ぜられ引田城に入城するが、手狭であったので同年中に聖通寺城に移る。1588年(天正16年)、聖通寺城でも不便を感じたため、香東郡篦原庄玉藻浦(現高松市玉藻町)に築城を開始。1590年(天正18年)完成。

1639年(寛永16年)、生駒氏四代高俊、生駒騒動により出羽国矢島藩1万石に転封となる。1642年(寛永19年)、水戸藩初代藩主・徳川頼房の子の松平頼重が12万石で入封。城の整備に着手する。二代頼常にも改修が引き継がれる。

1644年(正保元年)、頼重、城内の飲料水確保のため水道を造り、城下の亀井・大井戸・今井戸より水を引く。1669年(寛文9年)、小倉城を模した3層5階の天守が完成し、頼重は隠居する。隠居所として城の南西に栗林公園を造築する。

1671年(寛文11年)に松平氏による城の大改修が始まる。

1869年(明治2年)、版籍奉還に伴い廃城となる。1884年(明治17年)に老朽化のため天守が破却される。1945年(昭和20年)、高松空襲により三の丸の桜御門が焼失。

1947年(昭和22年)、旧国宝保存法により北の丸月見櫓、北の丸水手御門、北の丸渡櫓、東の丸艮櫓の4棟が当時の国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定される。1954年(昭和29年)に高松市に譲渡され、1955年(昭和30年)に国の史跡に指定され、高松市立玉藻公園として一般公開される。

城郭の形式は輪郭式平城で、本丸を中心に二の丸、三の丸、北の丸、東の丸、桜の馬場、西の丸が時計回りに配置され、3重に堀が廻らされていた。かつては城壁が瀬戸内海に直接面し、外濠・中濠・内濠の全てに海水が引き込まれ、城内に直接軍船が出入りできるようになっており、水軍の運用も視野に入れ設計されていた日本初の本格的な海城である。

縄張りは黒田孝高(よしたか)が手掛けたといわれ、細川忠興、小早川隆景、藤堂高虎などによるとも言われている。高松城をはじめとする海城は海上封鎖が難しく、水攻めや水断ちといった攻城手段が使えないため、戦争時の篭城や物資の搬入、脱出ができ、近世の縄張りとしては有利であった。

本丸は城のほぼ中央に位置し、周りを内堀に囲まれ他の曲輪とは完全に独立している。外部とは、長さ16間(約30メートル)の木造の鞘橋一本だけで繋がっており、この橋を落とせば内部にいる人間は逃げ場を失う造り。

本丸の面積は狭いため御殿などの居住施設はなく、多聞櫓で囲まれた天守があるのみである。その天守台は本丸の東端に突き出し、三の丸の方から見ると天守が海上に浮いているように見えたという。

天守は独立式層塔型3重4階、地下1階、初層平面が東西13間2尺(約26.2メートル)×南北12間2尺(約24.2メートル)、高さ13間半(約24.5メートル)にもおよんだといい、現存している3重5階の高知城天守(高さ約18.6メートル)や松山城(高さ約20メートル)の天守を凌ぎ、四国最大の規模だった。

彦根城主で、幕末の大老井伊直弼の次女・弥千代姫が高松藩の第11代藩主松平頼聡に嫁いだ縁から、高松城と彦根城は姉妹城の提携を結んでいる。

日本の歴史公園100選に「玉藻公園」として、美しい日本の歴史的風土100選に「栗林公園、玉藻城」として選ばれている。
高松城 讃岐国(香川県高松市) - サムネイル写真
【関連サイト】
高松城【玉藻公園】公式ウェブサイト

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