【日刊】日本の城
名称:福山城(ふくやまじょう)
別称:葦陽城、久松城

史跡:国の史跡
国宝:-
重文:伏見櫓、筋鉄御門

住所:広島県福山市丸之内1−8
電話:084-922-2117
日本100名城:第71番
  - スタンプ:福山城天守閣内

福山城(ふくやまじょう)は、備後国(今の広島県福山市)にあった、江戸期には福山藩の藩庁などにも機能した日本の城である。築城年は1622年であり、廃城年は1874年。天守の築造年は1622年(複合式層塔型5重6階)、1966年にRC造復興。主な築城者は水野勝成で、主な改修者は阿部氏である。

福山城築城まで福山と呼ばれる街はなかった。福山城周辺は「杉原保」と呼ばれ古代から荘園として栄えていた。安土桃山時代には「野上村」と改称され、福山城の建つ丘陵は北側から連なる山並みの先端部で「常興寺」と呼ばれる寺が建てられていた。

常興寺は築城に際して城下北部に隣接する吉津村に移され、野上村は城下南西の新開地に移された(現在の市内野上町周辺)。南側は海が間近に迫る芦田川のデルタ地帯で、大部分は湿地帯や田畑となっていた。

この時の備後南部の中心地は福山城から北東約6キロに位置する西国街道沿いの神辺で、ここに備後国の政庁である神辺城があった。また、海においては福山城から南約12キロにある沼隈半島南端の鞆の浦が海上交通の要衝となっていた。

福山城は江戸時代初期、元和偃武の後に建造された近世城郭で最も新しい城である。日本における近世城郭円熟期の代表的な遺構とされる。

元和5年(1619年)、関ヶ原の戦い以降備後国・安芸国の二国を治めていた福島正則が武家諸法度違反により改易されたことから、 徳川家康の従兄弟である水野勝成が毛利氏など西日本の有力外様大名に対する抑え(西国の鎮衛)として備後国東南部と備中国西南部の計10万石を与えられ、大和国の郡山藩から転封する。

入封時の領地目録上は備後神辺城主であったが、神辺城はやや内陸にあり、過去に何度も落城した歴史があったことなどから、一国一城令が徹底されていたこの時期としては異例の新規築城が行われることになったといわれる。

城地は瀬戸内海との往来や西国街道との距離が考慮され、深津郡野上村の常興寺山(常興寺)一帯が選定された。北側は東西方向に切り開き総構えの堀を兼ねた川(吉津川)が通された。干潟であった南側は干拓されて城下町が開かれ、福山と名づけられた。

築城は低湿地な場所での工事も多くあったため、元和6年(1620年)に芦田川の流れを城の北側にある吉津川に分流しようとする工事が大水害により中断されるなど、困難を極めた。城の用材には福山城の築城に伴い廃城となった神辺城はもとより、江戸幕府より下賜された伏見城の遺材も多く用いられた。

この時、伏見城から移築された建造物としては伏見櫓や月見櫓、御殿(伏見御殿)、御風呂屋(御湯殿)、鉄御門、追手御門、多聞櫓などがある。また、幕府から石垣奉行2名が派遣されている。

そして、築城開始から3年近くの歳月を要した元和8年(1622年)に完成する。福山城は10万石の城としては破格の巨城で、特に5重の天守や三重櫓7基を始めとした20以上を数える櫓は特筆に値する。更に築城後には幕府公金から金1万2600両・銀380貫が貸与されるなど、天下普請に準じる扱いを受けた。

勝成の死後、勝俊、勝貞、勝種と続いたが、元禄11年(1698年)5代藩主水野勝岑の早世により無嗣除封となり、福山藩は一時的に天領とされる。福山城の受け取りは伊予国今治藩松平定陳と安芸国三次藩浅野長澄によって、城の管理は讃岐国丸亀藩京極高或によって行われた。

このとき領内全域で検地が行われ、福山藩の石高(表高)は10万石から5万石増の15万石と査定される。元禄13年(1700年)、出羽国山形藩より松平忠雅が水野時代から5万石分の領地を削減された10万石で入封する。

しかし、忠雅は10年後の宝永7年(1710年)に再び伊勢国桑名藩に移封させられ、同年、阿部正邦が下野国宇都宮藩より10万石で入封する。その後、正福、正右、正倫、正精、正寧と続くがそのほとんどが江戸住まいで、福山に帰城することも希であった。

また、阿部氏の時代は危機的な財政難が続いたこともあり、享保15年(1730年)には本丸御殿の奥向部分が江戸藩邸に移され、寛延3年(1750年)には二の丸下段の城米蔵が取り壊されるなど、必要性の薄まった施設は撤去されていった。

慶応元年(1865年)、阿部家9代藩主阿部正方が第二次長州征伐参加のため石見国へ出兵することになり、その準備を行っていたところ、二の丸南側の櫛形櫓で火薬が爆発し、隣接する鎗櫓、鉄砲櫓、番所が櫓内の武器と共に焼失した。

この火災は閉門後であったため死者は番人1名にとどまったが、城下は大混乱に陥ったといわれる。その後、長州軍との戦いは完敗し、兵を引き揚げた福山藩は幕末の動乱を傍観することになる。

しかし第二次長州征伐から3年後の慶応4年(1868年)1月9日に西国における幕府側の重要な拠点であった福山城が初めての攻撃を受ける。

王政復古により新政府軍(長州軍)は徳川譜代である福山藩を朝敵と見なし備後国へ侵攻。福山藩はこの直前に藩主阿部正方が急死して藩内の実権を勤皇派が握っていたことなどから、藩主の死を秘匿し当初から迎撃を諦めて籠城。

福山藩首脳らの奔走により新政府軍が本格的な攻撃を開始する前に福山藩は恭順を許される。これにより城下は戦火から守られたが、後に福山藩兵は新政府軍の先兵として不遇の扱いを受けることになった。

明治維新後の廃藩置県により福山藩は福山県となり、それから数年の間に県名や県域の変更を繰り返した。明治6年(1873年)の廃城令により廃城となり、ほとんどの施設は民間に払い下げられ、建物は建築資材として売却・解体され天守、伏見櫓、筋鉄門、御湯殿、鐘櫓、涼櫓、などを残すのみとなる。

本丸は、明治7年(1874年)に歴史的記念物の破壊を惜しむ周辺自治体の誓願により下賜され、明治8年(1875年)に「福山公園」として整備されたが、傷みの進む天守の修復費用を確保ができないことなどから、明治17年(1884年)に広島県へ返納された。

ところが、県は天守の修復どころか公園の維持費すら出し渋ったため、天守の破損は進み園内も荒廃した。見かねた福山町は県に公園の移譲を請願し、明治29年(1896年)に認可され、明治30年(1897年)に天守、伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿の修理が行われた。

昭和になると福山城の文化的価値が再評価され、昭和6年(1931年)に天守が、昭和8年(1933年)には伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿が国宝に、昭和11年(1936年)には本丸が史跡に指定された。しかし、太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)8月8日、米軍の空襲(福山大空襲)により天守、御湯殿、涼櫓など城下に残る多くの文化財と共に焼失した。

昭和41年(1966年)に天守、月見櫓、御湯殿が復興される。
福山城 備後国(広島県福山市) - サムネイル写真
【関連サイト】
福山城博物館 - 福山市ホームページ