【日刊】日本の城
名称:岡山城(おかやまじょう)
別称:烏城、金烏城

史跡:国の史跡
国宝:-
重文:月見櫓、西の丸西手櫓

住所:岡山県岡山市北区丸の内2丁目3−1
電話:086-225-2096
日本100名城:第70番
  - スタンプ:岡山城天守閣入口

岡山城(おかやまじょう)は、備前国(今の岡山県岡山市)にあった、江戸期には岡山藩の藩庁などにも機能した日本の城である。

築城年は正平年間(1346年-1369年)であり、廃城年は1873年(明治6年)。天守の築造年は1597年(複合式望楼型4重6階)、1966年に鉄筋コンクリート造外観復元された。主な築城者は上神高直で、主な改修者は宇喜多秀家、小早川秀秋、池田忠雄である。

『備前軍記』によれば、南北朝時代の正平年間(1346年-1369年)に、名和氏の一族上神高直が石山台(岡山)に城を築いたとう。その後およそ150年間の城主は明らかではない。戦国時代の大永年間(1521年-1528年)には、金光氏が居城とし金川城主の松田氏に仕えていた。

元亀元年(1570年)、宇喜多直家が金光宗高を謀殺してこの地を支配した。直家は備前守護代浦上氏の一族浦上宗景の被官であったが、備前西部を中心に勢力を急速に伸張していた。

天正元年(1573年)、直家はそれまでの居城である亀山城(沼城)から石山城に入城し、城の改築と城下町の形成を行った。この頃の石山城(岡山城)は、縄張が東西に走る連郭式であったと推定されている。

直家は北方の山裾にあった西国街道を、城の南に沿うように付け替えて城下に導いた。備前福岡、西大寺などから商人を呼び寄せ、いわゆる城下町の整備を行うなど積極的に流通主導による経済振興とも言うべき政策をとった。信長が安土城を築城する3年前のことである。

なお主家である宗景の居城である天神山は巨大なものではあるが天神山にある山城で、直家の水辺に近い小高い丘の石山城とは対照的。天正3年(1575年)には、浦上宗景の兄・政宗の孫をおしたてて宗景を播磨へ放逐し、事実上の下克上を行い、やがて備前、美作、さらに播磨、備中の一部を支配下に置いた。

直家の子・宇喜多秀家は、豊臣政権下で父の遺領をほぼ継承し、57万4,000石の大大名となる。これに相応した城とするため天正18年-慶長2年(1590年-1597年)の8年間にわたる大改修が行われ、近世城郭としての体裁を整えた。

秀家は「岡山」に本丸を構え、石山城の本丸を二之丸内郭に、二之丸を西之丸とし、そして内堀を挟んで二之丸、その西に三之丸の郭を整備した。これらは織豊系城郭に特徴的な高石垣の積まれた城である。

本丸は本段、中の段、下の段に分かれた構造で、本段の北寄りに金箔瓦を使用した壮麗な4重6階の望楼型天守を建てた。そしてそのままでは本丸の東側の守りが極めて薄い構造となったため、旭川本流を城郭の北から東側に沿うように極端に寄り添わせる形とし、天然の堀としている。

ただしこの付け替えによる明らかに不自然な形の流路は、城下に洪水を多発させる原因となり、やがて放水路としての百間川の整備へとつながる。城を南から取り巻くように西国往来の道筋を変えて、直家時代の城下町を拡大整備し、引き続き領内の有力商人を勧誘して経済活動を発展させるよう努めた。

築城には義父となった秀吉の意向が大いに働いていると言われている。この後、城は「岡山城」、城下町は「岡山」の呼称が定着した。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の主力となった秀家は八丈島に流刑となり、宇喜多家は改易。代わって小早川秀秋が備前・美作52万石の領主として入城した。秀秋は本丸中の段を拡幅し、三之丸の外側に15町余の外堀を掘り三之外曲輪の整備をして城下町の拡大を行った。

この外堀工事には農民だけでなく武士も使役し、20日で完成したため、「廿日堀、二十日堀(はつかぼり)」と呼ばれている。翌慶長6年(1601年)には、中の段南隅に沼城天守を移築、大納戸櫓と呼ばれた。岡山城最大の櫓で、二層の大入母屋造りの上に望楼を乗せた形式の三層四階の櫓であった。

秀秋は2年後の慶長7年(1602年)10月に岡山で急死、嗣子がなく小早川家は断絶。

慶長8年(1603年)、備前28万石は姫路城主池田輝政の次男忠継に与えられたが、幼少(5歳)のため、兄の利隆が「備前監国」として代政。利隆は「石山」の西端の西之丸を整備したと言われている。慶長18年(1613年)に忠継は岡山城に入ったが、慶長20年(1615年)に死去した。

元和元年(1615年)、忠継の弟・忠雄が淡路島より31万5000石で入封。幕府の格式に見合った城とするため、忠雄は本丸中の段を大幅に北側に拡張し、本段の御殿に加え新たに表書院も設けている。

また大手の南門を造り替え、城下の西端を限る用水路の西川を整備するなど、ここに岡山城の縄張りが完成する。重要文化財に指定されている月見櫓はこの頃の創建とされ、中の段の北西角の隅櫓で一部地下付き、本葺き、総白漆喰塗籠の壁仕上げの二階建て。城外からは二層の望楼型、城内からは三層に見える。

寛永9年(1632年)、忠雄の子・光仲が鳥取へ転封し、入れ代わって鳥取から池田光政が31万5000石で入封した。光政は利隆の子であり、姫路城で生まれたが、父の死後元和元年(1615年)に鳥取城主となっていた。

以後、幕末まで光政系池田氏の居城となる。 寛文6年(1669年)-貞享3年(1686年)にかけて百間川の改修整備が実施され、貞享4年(1687年)からは光政の子・綱政により14年の歳月をかけて後楽園を造営する。

周囲を土塁と竹垣で囲み、庭園の形をとるものの城を守る郭の役割を期待していたとされる。ともに郡代津田永忠によるものであり、永忠は閑谷学校、藩の新田開発などにも手腕を発揮した。

明治2年(1869年)の版籍奉還により藩主・池田章政は岡山藩知事に任ぜられ、岡山城は藩の府城たる役割を終えて兵部省管轄、つまり存城となった。明治6年(1873年)の廃城令により順次建物の取り壊し・堀の埋め立てが行われていき、明治15年(1882年)頃までには、天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すのみとなった。

昭和6年(1931年)、天守が国宝保存法に基づき当時の国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されるものの、昭和20年(1945年)6月29日の岡山空襲で天守・石山門を焼失。昭和39年(1964年)から2年かけて天守を鉄筋コンクリートにて再建した。

日本の歴史公園100選に「烏城公園」として、美しい日本の歴史的風土100選に「岡山城、後楽園」として選ばれている。
岡山城 備前国(岡山県岡山市) - サムネイル写真
【関連サイト】
岡山城(OKAYAMA CASTLE)|岡山市

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