八代妙見祭の神幸行事(やつしろみょうけんさいのしんこうぎょうじ)
種別1:風俗慣習
種別2:祭礼(信仰)
公開日:毎年11月22日、23日
指定日:2011.03.09(平成23.03.09)
都道府県:熊本県
所在地:八代神社(八代市)

八代妙見祭の神幸行事は、熊本県八代市にある八代神社の祭礼に行われる行事で、北極星と北斗七星を神格化した妙見神に対する信仰に基づき、神社の例祭は妙見祭と呼ばれている。

その祭日には、妙見神の乗り物とされる大きな亀蛇や華やかな笠鉾、木馬、獅子、奴獅子や奴、木馬、笠鉾、亀蛇など多彩な行列が神輿に供奉して賑やかに市内を練り歩く。

八代神社は、文治2年(1186年)に八代市内の現在地に建てられ、八代郡の惣鎮守として崇敬を集めてきた。明治初期の神仏分離によって現在の名称に改称する以前は、妙見宮と称されており、平安時代に横嶽の山頂と山麓に創建されたとの伝承のある上宮と中宮に対し、下宮として位置づけられている。

妙見祭は、早くは中世に八代を支配した相良氏の『八代日記』永正12年(1515年)の条に、行列を伴う祭礼としてその記述がみられるが、近世になり、加藤氏改易後、寛永9年(1632年)に細川忠興(三斎)が八代に入部すると、妙見宮は細川家の守護社となり、その祭礼も隆盛した。

忠興の没後は、八代城主となった松井氏が妙見宮と祭礼の運営を継承し、元禄年間(1688年-1703年)には、財力を蓄えた城下町の商人層が祭礼に参加して数多くの出し物が増え、祭りの風流化が進んだ。

18世紀後期から19世紀初めの製作が推定される『妙見宮祭礼絵巻』(松井文庫所蔵)には、現在の神幸行事にみられる要素がほぼ出揃っている。

行事の期日は、かつては旧暦10月17、18日であったが、明治5年の改暦以後、新暦で行われるようになり、平成5年から現行の期日になり、現在に至っている。

祭祀組織は、八代神社の氏子町内と旧城下の地域を中心に構成され、八代妙見祭保存振興会の差配のもとに各町内や参加団体が連動し、行事が執行される。

神幸行事は、22日の「お下り」と翌23日の「お上り」を中心に行われる。「お下り」は、22日午後、神馬を先頭にした神輿の行列が八代神社を出発する。御旅所である塩屋八幡宮までの約6キロの道のりを、市街地を東西に縦断するかたちで練り歩く。

翌23日の「お上り」は、早朝に塩屋八幡宮を行列が出発し、市内を練り歩きながら八代神社に向かう。「お上り」のとき行列は、多彩な出し物が連なる1キロ以上に及ぶ長大な編成となる。

獅子を先頭に、奴、木馬、鉄砲、毛槍、白和幣、籠(稚児)、笠鉾・菊慈童、神馬、神馬奉行、甲冑武者が続き、神輿の一行の後に、本蝶蕪、蘇鉄、西王母、猩々、蜜柑、恵比須、松、迦陵頻伽の八基の笠鉾、亀蛇、飾馬が続く。

笠鉾は、六角形あるいは八角形の二層の笠を持つ楼閣型の構造で、高さは4-5メートルに及ぶ。頂部には、富貴や不老長寿などを題材にした飾り物が付けられ、周囲は、技巧を凝らした欄間や豪華な水引幕で覆われている。笠鉾は、古くは架台に担ぎ棒を2本さして担ぐ形式であったが、現在は2輪の曳く形式となっている。

亀蛇は、亀と蛇を合わせた想像上の動物で、妙見神が渡来したときの乗り物であると伝えられている。全長約3メートルの大きさで、ガメの呼称で親しまれており、5人の男性が中に入って首を左右に振ったり、上下に伸縮させたりするなど巧みに動作を操る。

この行事は、八代の城下町を支配してきた歴代城主の庇護のもとに発展し、近世には、武家主導の祭礼から町人層の参加によって、多彩な祭礼風流の出し物が登場する現行の形に整えられ、伝えられてきた行事である。

近世の城下町に発達し、山・鉾・屋台などが巡行する都市祭礼は、全国各地に伝承されているが、本件は、この種の祭礼行事の典型例の一つと考えられるものであり、九州南部を代表する大規模な祭礼行事でもある。

また、妙見信仰に由来する亀蛇の練り歩きや独特の形態をとる華麗な笠鉾の巡行は、地域的特色が顕著であり、多彩な出し物から構成される行例が神輿に供奉して氏子域を練り歩く行事は、我が国の祭礼文化を考えるうえで重要である。

保護団体名:八代妙見祭保存振興会
重要無形民俗文化財「八代妙見祭の神幸行事」 - 歴代城主の庇護で発展、華麗な笠鉾の巡行
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