【日刊】日本の城
名称:大坂城(おおさかじょう)
別称:金城、錦城

史跡:国の特別史跡
国宝:-
重文:櫓・門など

住所:大阪府大阪市中央区大阪城1−1
日本100名城:第54番
  - スタンプ:天守閣1階インフォメーション

大坂城(おおさかじょう)は、摂津国(今の大阪府大阪市)にあった日本の城である。名古屋城熊本城とともに、日本三名城の一つ。主な築城者は豊臣秀吉で、主な改修者は徳川秀忠。

築城年は1583年(天正11年)、廃城年は1868年(明治元年)。天守は、豊臣期の複合式望楼型(1585年築)、徳川期の独立式層塔型5重5階地下1階(1626年再)、いずれも非現存。1931年にSRC造で復興された(独立式望楼型5重8階)。

通称「太閤さんのお城」とも呼ばれているが、城跡に現存する櫓や石垣などは徳川氏、江戸幕府によるものであることが分かっている。

大坂城は、上町台地の北端に位置する。かつて、この地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあった。

元々古墳時代の古墳があったと言われ、戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、天正8年(1580年)に石山合戦で焼失した。

石山合戦終了後、織田信長の命令で丹羽長秀に預けられ、後に四国攻めを準備していた津田信澄が布陣したが、信澄は本能寺の変の際に、丹羽長秀に討たれた。

その後、清州会議で池田恒興に与えられるも、ただちに美濃へ国替えとなり、秀吉によって領有された。そして秀吉によって大坂城が築かれ、豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となった。

慶長8年(1603年)に徳川幕府が成立した後も、豊臣秀頼は大坂城に留まり、摂津・河内・和泉を支配していたが、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣で家康によって構成された大軍に攻められ、篭城戦を行った。

そして、その講和に際して惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまう。

秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で大坂城は落城し、豊臣氏は滅亡した。

落城に際して、灰燼に帰した大坂城は初め家康の外孫松平忠明に与えられたが、元和5年(1619年)に幕府直轄領(天領)に編入された。

翌元和5年(1620年)から、二代将軍徳川秀忠によって、豊臣氏築造のものに高さ数メートルの盛り土をして縄張を改めて再建が始められ、3期にわたる工事を経て寛永6年(1629年)に完成した。

幕府直轄の城である徳川大坂城の城主は徳川将軍家の歴代将軍自身であり、譜代大名から選ばれる大坂城代が預かり、これも譜代大名からなる2名の大坂定番と4名の大坂加番と、幕府直轄戦力たる大番2組による大坂在番が警備を担当した。

江戸時代にはたびたび火災による損傷と修復を繰り返した。特に寛文5年(1665年)には落雷によって天守を焼失し、以後は天守を持たない城であった。

江戸末期、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に発せられた王政復古の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移り、居城していたが、慶応4年1月3日(1868年1月27日)、旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって慶喜は船で江戸へ退却、大坂城は新政府軍に開け渡された。

この前後の混乱のうちに出火し、御殿や外堀四、五、七番櫓など城内の建造物のほとんどが焼失した。"

日本の歴史公園100選に「大阪城公園」として、美しい日本の歴史的風土100選に「住吉大社・住吉公園、大阪城公園、御堂筋、造幣局桜の通り抜け、毛馬桜之宮公園」として選ばれている。

キャラクター(ゆるキャラ)は、ゆめまるくんである。関連情報はこちらのサイトに詳しい。
大坂城 摂津国(大阪府大阪市) - サムネイル写真
【関連サイト】
大阪城天守閣

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