【日刊】日本の城
名称:新発田城(しばたじょう)
別称:菖蒲城、あやめ城、舟形城、浮船城、狐の尾引き城、戦国自衛隊の城

史跡:国の史跡
国宝:-
重文:表門、二の丸隅櫓

住所:新潟県新発田市浦城山1
日本100名城:第31番
  - スタンプ:新発田城辰巳櫓内(12月~3月は市立図書館)
新発田城(しばたじょう)は、越後国(今の新潟県新発田市)にあった、江戸期には新発田藩の藩庁などにも機能した日本の城である。

築城年は不明であり、廃城年は1873年(明治6年)。天守は、1679年(延宝7年)に御三階櫓複合式層塔型3重3階(非現存)が再建され、2004年(平成16年)に木造復元された。主な築城者は新発田氏で、主な改修者は溝口秀勝である。

城の北部を流れる加治川を外堀に利用した平城であり、本丸を中心に北の古丸と南の二の丸で囲い、その南側に三の丸を配する構造であった。

現在は本丸の一部を除く全域と古丸全域、二の丸の一部が自衛隊駐屯地として利用され、本丸南側の石垣と堀、櫓門の本丸表門と二重櫓の二の丸隅櫓が現存。三階櫓や二重櫓の復元建築がある。

現存建築がある城跡としては新潟県内では唯一。また、石垣には石同士の接合部分を隙間なく加工して積み上げる工法である切り込み接(ハギ)が用いられている。

最初に城が築かれた時期は不明だが、鎌倉時代初期に幕府設立に戦功のあった佐々木盛綱の傍系である新発田氏による築城と考えられている。

代々新発田氏の居城となっていたが、1581年(天正9年)、新発田重家が上杉景勝に対して反乱を起こした(新発田重家の乱)。1587年(天正15年)、景勝により新発田城は落城。新発田氏は滅亡した。

その後上杉氏の会津転封に伴い、1597年(慶長2年)、溝口秀勝が6万石の所領を得て新発田に入封。新発田藩領内を治めるための拠点として新発田重家の旧城の地を選び、新発田城の築城を行った。

城が完全な形となったのは1654年(承応3年)頃、三代宣直の時代といわれる。その後1668年(寛文8年)、1719年(享保4年)に火災によって城内建築に大きな被害を受けるが、その度再建されている。

1873年(明治6年)に明治政府より発布された廃城令により、表門・二の丸隅櫓と石垣のみを残し、城内の建物は三階櫓など大半が破却された。

長年に渡って城郭の復元を住民等に望まれ、近年より、明治初頭に撮影された古写真などを資料として考証・設計された在来の伝統的手法による復元の計画が進められ、2004年(平成16年)に三階櫓と辰巳櫓が復元され、辰巳櫓のみ、同年7月から一般公開されている。

日本の歴史公園100選に「新発田城址公園」として選ばれている。

自衛隊駐屯地で、観光に支障が多いものの、城と重なる駐屯地の光景を見て、「戦国自衛隊のようである」と感想を漏らす人々が非常に多いという。「戦国自衛隊の城」の名称が定着しつつある。
新発田城 越後国(新潟県新発田市) - サムネイル写真
【関連サイト】
新発田城 - しばた観光ガイド