【日刊】日本の城
名称:躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)
別称:-

史跡:国の史跡
国宝:-
重文:-

住所:山梨県甲府市古府中町2611
日本100名城:第24番
  - スタンプ:武田神社宝物殿
躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、甲斐国守護武田氏の本拠である甲府に築かれた館で、守護所が所在した。現在、跡地には武田神社があり、また、「武田氏館跡」として国の史跡に指定されており、県内では甲州市(旧勝沼町)の勝沼氏館と並んで資料価値の高い中世の城館跡である。

築城年は1519年(永正16年)であり、廃城年は1594年(文禄3年)。主な築城者は武田信虎で、主な改修者は徳川氏、羽柴秀勝、加藤光泰である。

戦国時代に築かれた甲斐源氏武田氏の本拠地で、居館と家臣団屋敷地や城下町が一体となっている。信虎、晴信(信玄)、勝頼三代の60年余りにわたって府中として機能し、後に広域城下町としての甲府や、近代以降の甲府市の原型となる。

県中部、甲府盆地の北端、南流する相川扇状地上に位置する。東西を藤川と相川に囲まれ、背に詰城である要害山城を配置した構造になっている。

甲斐守護の武田信昌は、居館を甲府盆地東部の石和から川田(甲府市)へ移転して家臣団を集住させ、笛吹川を挟んだ商業地域と分離した城下町を形成。

16世紀初頭、有力国人層を制圧して甲斐統一を進めていた信虎は、1519年(永正16年)に盆地中央に近い相川扇状地への居館構築をはじめ、有力家臣らを府中に住まわせている。「新府中」や「甲斐府中」などと呼ばれた。

信虎は室町幕府の将軍足利義晴と通じ、甲府の都市計画も京都の条坊を基本とし、当初の居館は将軍邸である花の御所(室町第)と同様の方形居館で、建物配置や名称にも将軍邸の影響が見られる。また、同時に裏山に要害山城を築き守りを固めた。

晴信(信玄)時代の武田氏は大きく所領を拡大させ、信濃、駿河、上野、遠江、三河などを勢力下に収めるが、本拠地は一貫して要害山城を含む躑躅ヶ崎館であった。

甲府は要地であったが、1548年(天文17年)には庶民の屋敷建築が禁止されている等、城下の拡大には限界もあったとされる。

また、この頃傾向として全国的な山城への居館移転がみられ、勝頼期には1575年(天正3年)の長篠の戦いでの敗戦により領国支配に動揺が生じ、勝頼は領国体制の立て直しのため府中移転を企図、家臣団の反対もあったが新たに新府城を築き、1582年(天正10年)には躑躅ヶ崎館から移転している。

しかし、まもなく実施された織田氏の甲州征伐の結果、武田氏は滅亡する。

武田氏滅亡後、入府した河尻秀隆は躑躅ヶ崎館で政務をとったとされるが、まもなく本能寺の変が勃発し、その後の混乱の中で落命する。その後に入府した徳川家康によって改めて甲斐支配の主城とされ、館域は拡張されて天守も築かれた。

1590年(天正18年)に徳川家臣の平岩親吉によって甲府城が築城されるや、その機能を廃されるに至った。以降、甲府は甲府城を中心とした広域城下町として発展した。

館として特別マスコットキャラクターなどは用意されていない。
躑躅ヶ崎館 甲斐国(山梨県甲府市) - サムネイル写真
【関連サイト】
武田三代の拠点 躑躅ヶ崎の館。戦国大名の典型的城郭 - 甲府市

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