【日刊】日本の城
名称:小田原城(おだわらじょう)
別称:小峯城、小峰城、小早川城、小早川館

史跡:国の史跡
国宝:-
重文:-

住所:神奈川県小田原市城内6-1
日本100名城:第23番
  - スタンプ:天守閣1階
小田原城(おだわらじょう)は、相模国(今の神奈川県小田原市)にあった、江戸期には小田原藩の藩庁などにも機能した日本の城である。

築城年は1417年(応永24年)であり、廃城年は1871年(明治4年)。天守の築造年は、1633年。1706年に再建、1960年にRC造で復興された。主な築城者は大森頼春で、主な改修者は上杉氏、北条早雲、大久保忠世、稲葉正勝である。

元は、平安時代末期、相模国の豪族土肥氏一族である小早川遠平(小早川氏の祖とされる)の居館であったとされる。

1416年(応永23年)、上杉禅秀の乱で禅秀方であった土肥氏が失脚し、駿河国に根拠を置いていた大森氏がこれを奪って、相模国・伊豆国方面に勢力を広げた。

1495年(明応4年)、伊豆国を支配していた伊勢平氏流伊勢盛時(北条早雲)が大森藤頼から奪い、旧構を大幅に拡張。

ただし、盛時は亡くなるまで韮山城を根拠としており、小田原城を拠点としたのは息子の伊勢氏綱(後の北条氏綱)が最初とされ、その時期は氏綱が家督を継いだ1518年(永正15年)もしくは盛時が死去した翌1519年(永正16年)とみられている。

以来北条氏政、北条氏直父子の時代まで戦国大名北条氏の五代にわたる居城として、南関東における政治的中心地となった。

1561年(永禄4年)、北関東において後北条氏と敵対する上杉謙信が越後から侵攻し、小田原城の戦いとなる。軍記などでは、11万3000(関八州古戦録より)ともいわれる大軍勢で小田原城を包囲。1か月にわたる篭城戦の後、上杉軍の攻撃を防ぎ切ったと伝えている。

1568年(永禄11年)、甲斐国の武田信玄は駿河今川領国への侵攻を開始し(駿河侵攻)、後北条氏は甲相同盟を破棄し越後上杉氏との越相同盟を結び武田方に対抗した。

信玄はこれに対して北関東の国衆と同盟し後北条領国へ圧力を加え、翌1569年(永禄12年)10月1日から4日にかけて後北条領国へ侵攻、小田原城を包囲する軍事的恣意活動を行い、撤退に際して追尾した後北条勢を三増峠の戦いにおいて撃退した。

後北条氏による小田原城の改築の最初は、盛時が小田原城を得た直後で、ほぼ同時期に鎌倉に大被害をもたらした大地震があったと言われており(明応地震)、戦闘と地震による打撃を回復させるための改築が行われた。

もう一度は1566年(永禄9年)から同12年の時期に小田原城の改築に関する文書が多数発給されており、この時期に相次いだ上杉氏・武田氏の侵攻に備えたものと考えられている。

1590年(天正18年)、豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして隠居北条氏政と当主氏直が指揮する北条氏と開戦、当時北条の台頭に対抗していた関東の大名・佐竹義重・宇都宮国綱らとともに数十万の大軍で小田原城を総攻撃した。

小田原征伐(小田原合戦、小田原の役など)と呼ばれるこの戦いにおいて、秀吉は圧倒的な物資をもって取り囲むとともに別働隊をもって関東各地の北条氏の支城を各個撃破し、篭城戦によって敵の兵糧不足を待ち逆襲しようとした北条氏の意図を挫き、3か月の篭城戦の末ほとんど無血で開城させた。

この篭城戦において、北条側が和議と抗戦継続をめぐって議論したが一向に結論が出なかった故事が小田原評定という言葉になっている。その後、秀吉は国綱とともに下野国宇都宮に陣を移し、参陣した東北地方の諸大名の処遇を決定、秀吉の国内統一事業はこれをもって完成した(宇都宮仕置)。

戦後、北条氏の領土は徳川家康に与えられ、江戸城を居城として選んだ家康は腹心大久保忠世を小田原城に置いた。

小田原旧城は現在の小田原の市街地を包摂するような巨大な城郭であったが、大久保氏入部時代に規模を縮小させ、以後、17世紀の中断を除いて明治時代まで大久保氏(藤原北家宇都宮氏流)が居城した。

一方北条氏は、一族の北条氏盛が河内国狭山(現在の大阪府大阪狭山市)1万余石を治める外様大名として明治に至っている。

日本さくら名所100選「小田原城址公園・城山公園」、日本の歴史公園100選「小田原城址公園」、美しい日本の歴史的風土100選「小田原城址公園、西海子地区のたたずまい」として、それぞれ選ばれている。

城としてのキャラクターはない。小田原市の観光PRキャラクターとして「梅丸」がいる。小田原市の特産物である「梅」の実をモチーフにした顔立ちと、小田原合戦400年(1990年)を記念とした赤い甲冑姿。詳しくはこちら
小田原城 相模国(神奈川県小田原市) - サムネイル写真
【関連サイト】
小田原城 - 小田原市

【関連記事】
神山神社(小田原市) - 北条氏綱が再興も、小田原攻めで神主が小田原城に籠城して衰微