【日刊】日本の城
名称:鉢形城(はちがたじょう)
別称:-

史跡:国の史跡
国宝:-
重文:-

住所:埼玉県大里郡寄居町鉢形2496−2
日本100名城:第18番
  - スタンプ:鉢形城歴史館受付
戦国時代の城跡である。築城年は1476年(文明8年)であり、廃城年は1590年(天正18年)。主な築城者は長尾景春で、主な改修者は田丸直昌、森忠政である。

現在は国の史跡に指定され、鉢形城公園(はちがたじょうこうえん)として整備されている。園内には、鉢形城歴史館(はちがたじょうれきしかん)が建てられ、往時の鉢形城の姿を紹介している。

深沢川が荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地し、その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、外曲輪、三の曲輪(三ノ丸)の三つの郭を配し、両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪(二ノ丸)、本曲輪(本丸)、笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっている。

搦手、本丸、二ノ丸、三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともない、また北西側の荒川沿岸は断崖に面する。

初めて築城したのは関東管領山内上杉氏の家臣である長尾景春で、1476年(文明8年)のこと。1478年(文明10年)、扇谷上杉氏の家宰太田道灌が鉢形城を攻めた。

1488年(長享2年)、扇谷の上杉定正が鉢形城の上杉顕定を攻めるため兵をおこし、城の近くで両軍が遭遇して高見原の戦いが起こった。このとき、定正は戦闘には勝利したものの鉢形城は落とすことができず撤退した。

1494年(明応3年)、定正は再度鉢形城の顕定を攻めようと伊勢盛時(北条早雲)とともに高見原に打って出たが、定正はこのとき荒川渡河中に落馬して死去。

以後、上杉顕定の存命中、鉢形城はその手にあり、顕定の後を継いだ養子の上杉顕実(実父は古河公方足利成氏)も鉢形城を拠点とした。

1512年(永正9年)、顕実は同じ顕定の養子であった上杉憲房の軍に包囲されて鉢形城は落城、顕実は命を助けられたものの山内上杉家当主の座を失った。

1515年(永正12年)、憲房は山内上杉氏の家督を継ぎ、同年に顕実が死ぬと関東管領職をも継いだ。しかし、家臣として仕えていた長尾景春が離反し、扇谷上杉家の上杉朝興、相模の後北条氏二代北条氏綱、甲斐の武田信虎などとの長年にわたる抗争のなか、1525年(大永5年)3月に病没。養子の上杉憲寛が継いだが、後に争いの末、実子の上杉憲政が継いだ。

1546年(天文15年)、北条氏三代北条氏康が朝定・憲政の拠る川越城を攻略する河越夜戦が起き、それに勝利して北条氏が武蔵国における覇権を確立。

1564年(永禄7年)、氏康四男北条氏邦が鉢形城へ入城。以後、鉢形城は北条氏の北関東支配の拠点となった。その後も戦略上の重要性から、各地の戦国大名の攻防の場となり、1569年(永禄12年)には武田信玄による攻撃を受け、1574年(天正2年)には、上杉謙信が城下に火を放っている。

1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐がはじまり、鉢形城は前田利家・上杉景勝・島田利正・真田昌幸、徳川家康麾下の浅野長吉、本多忠勝、鳥居元忠らの連合軍 (3万5000) に包囲され、北条氏邦の老臣黒澤上野介ら (3000) が約1か月の籠城戦を戦ったのち、開城。

その後、徳川家康の関東討入にともない、成瀬正一、日下部定好が代官となって周辺の統治を行った。その後廃城となる。

関東地方に所在する戦国時代の城郭としては比較的きれいに残された城の一つといわれる。1932年(昭和7年)に「鉢形城跡」(はちがたじょうあと)として国の史跡に指定された。1984年(昭和59年)からは寄居町による保存事業が開始された。

城跡内には町天然記念物に指定されているバラ科サクラ属の植物の一種「エドヒガン」が生存している。高さ18メートル、樹齢は約150年。
鉢形城 武蔵国(埼玉県寄居町) - サムネイル写真
【関連サイト】
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