【日刊】日本の城
名称:若松城(わかまつじょう)
別称:鶴ヶ城、会津若松城、会津城、黒川城

史跡:国の史跡
国宝:-
重文:-

住所:福島県会津若松市追手町1−1
日本100名城:第12番
  - スタンプ:天守閣内売店
若松城(わかまつじょう)は、陸奥国(今の福島県会津若松市)にあった、江戸期には会津藩の藩庁などにも機能した日本の城である。

築城年は1384年(元中元年/至徳元年)であり、廃城年は1874年(明治7年)である。天守の築造年は、1593年(文禄2年)。主な築城者は蘆名直盛で、主な改修者は蒲生氏郷、加藤明成である。

若松城は旧城下町の南端に位置し、郭内(武家屋敷)と町屋敷が外濠で隔てられ、さらに郭内の内側に内濠を有する梯郭式の平山城である。

元中元年/至徳元年(1384年)、蘆名氏七代当主の蘆名直盛が小田垣の館または東黒川館という館を造ったのが若松城のはじまり。以後代々蘆名氏の城であった。戦国時代中後期には、蘆名氏中興の祖・盛氏が出て、黒川城を中心に広大な版図を築いた。

天正17年(1589年)、蘆名氏と連年戦いを繰り返していた伊達政宗は、豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にした。しかし、政宗は天正18年(1590年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられた。

代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、文禄元年(1592年)より大大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備した。

氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。

慶長3年(1598年)、氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封された。越後国春日山より上杉景勝が120万石で入封したものの、関ヶ原の戦い、さらに江戸初期の異動で城主はめまぐるしく変わった。

寛永20年(1643年)、出羽国山形より三代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封。以後、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となった。

慶応4年(1868年)、戊辰戦争の際には会津戦争にて、会津勢の立て篭もる若松城は1ヶ月の間持ちこたえ、落城しなかったが、その後開城された。天守を含む多くの建造物の傷みは激しく、その後も放置されたまま破却を迎えた。

現在、城跡は都市公園鶴ヶ城公園となっており、そのほとんどが国の史跡に指定されている。史跡外の三ノ丸跡には陸上競技場、市営プールおよび福島県立博物館がある。

また、再建された天守は若松城天守閣郷土博物館として利用されている。盛岡城白河小峰城とともに「東北三名城」の一つとされる。

「鶴ヶ城公園」として、日本さくら名所100選と日本の歴史公園100選にそれぞれ選ばれている。

城としてのマスコットキャラクター(ゆるキャラ)などは特になし。
若松城 陸奥国(福島県会津若松市) - サムネイル写真
【関連サイト】
鶴ヶ城 - 会津若松観光ビューロー|鶴ヶ城 会津若松城 御薬園など