880年に筑前から勧請された、春日神も祀られた式内名神大社
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[住所]奈良県桜井市外山818
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宗像神社(むなかたじんじゃ)は、奈良県桜井市外山(とび)の鳥見山(とみやま)山麓にある神社。鳥見山は、初代神武天皇が大和に入り、祖神を祀る霊疇を設けた山。

『延喜式神名帳』にある「宗像神社三座(大和国・城上郡)」に比定される式内社(名神大社・月次新嘗)。ただし、『延喜式臨時祭』「名神祭」には掲載されていない。近代社格では村社。

『延喜式神名帳』に「三座」とあり、いわゆる宗像三女神である多紀理毘売命市寸嶋比売命田寸津比売命の3柱を祀る。

宗像三女神は宗像氏の奉斎神で、『日本三代実録』元慶4年(880年)3月27日条に、当社は左京の宗像神社ともども筑前国の宗像神社(現 宗像大社)の「同神別社」であると記されている。

また、寛平5年(893年)10月29日の「太政官符」所引「高階忠峯等解状」(『類聚三代格』所収)にも「(筑前国)宗像大神同神」とある。以来、高階氏が当社の神官職を担っている。

胸形徳善の女である尼子娘が、天武天皇の後宮に入って高市皇子の母となった縁によって、同皇子の外戚の氏神として祀られた、あるいはそれ以前に宗像氏が本貫地から奉斎する宗像三女神を分霊・分祀したものとも。

その後、高市皇子の後裔である高階氏が氏の神として崇め、元慶5年(881年)には本社である宗像大社に准じて神主職を置き、高階氏をこれに補任するよう定められた。

以後の由緒は南北朝以後は高階氏の後裔玉井氏の家伝に詳しい。

それによれば、高階義岑が弟の玉井勝坊入道西阿とともに赤尾城(現桜井市赤尾)を拠点に南朝方に与して、興国2年(1341年)7月3日に渡辺渡と鵄村(とびむら、現在の外山一帯)で合戦した際、当社は兵火に罹って焼亡。

興福寺の縁で春日明神とその若宮が春日大社から勧請され、「春日社」と称されるようになり、宗像神社自体はあってなきが状態に至った。

そのために正平9年(1354年)、高階忠正が自邸内に神霊を遷して、「中島宗像社」と称えて来た。

天正18年(1590年)になって、玉井忠滋が春日社も併祭する形で旧社地に再興し、幕末には鈴木重胤の尽力もあって、安政6年(1859年)に改めて宗像大社から神霊を勧請し、翌万延元年(1860年)には社殿などを復旧した。

明治に入ってまず無格社に指定され、同8年に現社号に復称、同21年(1888年)には宗像神を主祭神とする体裁に改めて、同40年(1907年)に村社に昇格。第二次大戦後は神社本庁に属している。

当社の神事は、氏子各人を単位とする「大頭屋」と、各戸を単位とする「古頭屋」の二つの宮座によって斎行されている。

なお、例祭日は正平9年の高階忠正邸遷座に際して、3月27日から9月19日に改めたと伝えられるが、現在の祭日は更にそれを新暦に改め、10月19日となっている。

本殿は三間二間の神明造銅板葺で棟に千木・鰹木を置く。本殿をはじめとする社殿は平成21年(2009年)に改築された。

境内社として、春日社、春日若宮、六所神社、琴平神社、宮谷神社(鬼子母神社、子供神社)、市杵島神社が鎮座する。

境内入口には「能楽宝生流発祥の地」の碑がある。

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宗像神社(桜井市) - 880年に筑前から勧請された、春日神も祀られた式内名神大社
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