神麻績機殿神社遠景
天皇の代が替わる。倭比売命(倭姫命、やまとひめのみこと)にとっては、天皇が父から兄へとなった。

大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと=第12代景行天皇)の20年[庚寅]、ヤマトヒメはついに、
「歳既に老いた、仕えることかなわず、吾足りぬ」
と言い、斎内親王に仕えるべき物部八十氏の人々を定め、十二司寮官などを自分の姪に当たる景行天皇皇女、五百野皇女久須姫命(いほののひめみこくすひめのみこと、五百野皇女(いおののおうじょ))に移した。

同じ年の春2月[辛巳]朔[甲申]、五百野皇女を御杖代として、多気宮を造営させ、斎み、慎しみ、侍らせた。伊勢斎宮群行の始まりである。

ここにヤマトヒメ、宇治の機殿の礒宮、今の機殿神社、神服織機殿神社神麻績機殿神社に坐し、天照大御神(皇太神、大神)をひたすら祀る日々に入った。

景行天皇28年[戊戌]春2月、暴神多く起り、東国が落ち着かなかった。冬10月[壬子]朔[癸丑]、日本武尊が東征の途に就き、戊午、伊勢の神宮を拝み、叔母のヤマトヒメの対面する。
「陛下のご命令を拝し、東征して、暴神を誅しに参ります」
ヤマトヒメは、ヤマトタケルに草薙の剣を授けて、
「謹んで、怠りなきよう」
と告げた。

この年、ヤマトタケル、駿河に至り、野中に入って、野火の災いに遭う。このピンチを救ったのが草薙の剣。このいわれがあるために、「草薙」の名称が付加される。正式名称は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)。

ヤマトタケルは東征を無事に終えて、尾張国に戻ってきた。ミヤズヒメと結婚、その翌日、草薙の剣をミヤズヒメの元に置いたまま、つまり叔母ヤマトヒメの忠告を無視して増長して、伊吹山に登り、毒にあたって、薨去。その草薙の件は今、尾張国熱田社にある。

つまり、今の熱田神宮である。

ここにおいて、ヤマトヒメは実質的に亡くなったのではないか、と考えられる。それでもアマテラスを奉じること100年を超す。しかし、『倭姫命世記』はまだ続き、ヤマトヒメは実に第21代雄略天皇の御世まで生き抜く。そこまで行くと御年500歳になんなんとする。

ヤマトタケルの説話は、ヤマトヒメの老齢の頃、と考えることにし、ここに、初代ヤマトヒメは隠れた、と、史実的には考えたい。五百野皇女以降、斎宮の名が伝わらないのは、ヤマトヒメの名を襲名し、代を重ね、ヤマトヒメがあたかも一人だけで、長きにわたって存命していた、と考えられた可能性はある。

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