信長の兵火で焼失もその後再建した元伊勢の一つ
[住所]三重県松阪市大阿坂町670
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阿射加神社(あざかじんじゃ)は、三重県松阪市大阿坂町にある神社。近世まで「龍天明神」と俗称された。

『延喜式神名帳』にある「阿射加神社三座(伊勢国・壱志郡)」に比定される式内社(名神大社)の論社。近代社格では村社。

式内「阿射加神社」の論社として他に同市小阿坂町にある同名神社がある。両社は1キロ程度しか離れておらず、由緒も多くを共有している。

当社は倭姫命が4年滞在した、『皇太神宮儀式帳』にある「壱志藤方片樋宮」、『倭姫命世記』にある「阿佐加藤方片樋宮」の伝承地、元伊勢の一つ。

『皇太神宮儀式帳』に、倭姫命が「藤方片樋宮」において天照大神を奉斎していた時に、第11代垂仁天皇の使者である阿倍大稲彦命(あへのおおしねひこのみこと)が阿佐鹿悪神(あさかのあらぶるかみ)を平定したとある。

また、『倭姫命世記』には、「阿佐加之弥子(阿坂の峰)」に伊豆速布留神(いつはやふるのかみ)がいて通行の邪魔をするので、その心を和ませるために山上に神社を造営。

伊勢の神宮(伊勢神宮)の豊受大神宮(外宮)祀官度会氏の祖である大若子命(おおわくごのみこと)に祈らせた、とある。外宮摂社大間国生神社の御祭神でもある。

一書に、「阿佐賀山」に荒神(あらぶるかみ)がいて、倭姫命の「五十鈴川上之宮」、つまり現在の伊勢神宮の皇大神宮(内宮)への巡行を拒んだ。

そこで、かつて阿坂国(当地一帯の古称)を平定した天日別命(あめのひわけのみこと)の子孫である大若子命に祀らせたとある。

この「悪神」や「伊豆速布留神」や「荒神(荒悪神)」が当社の御祭神で、本来は当地一帯を領有する神だったとみられる。

出口延経が、当地は『古事記』に猿田彦神が溺れたと伝える伊勢国阿邪訶の地であり、その時に化生した猿田彦神の三つの御魂である底度久御魂都夫多都御魂阿和佐久御魂が当社御祭神の三座であると唱えた。

当社の御祭神は現在、猿田彦大神、伊豆速布留神、底度久神(底どく御魂)の三柱。

同市小阿坂町にある同名神社とは、猿田彦大神、伊豆速布留神まで共通するが、三柱目は小阿坂町の方は竜天大神となっている。

猿田彦命の死に際しての三つの御魂の中で、底どく御魂のみ祀られている理由は不明。

安岡親毅の『勢陽五鈴遺響』には、室町時代の応永(1394年-1427年)以後に阿坂山頂から遷座したとある。

社伝によれば、織田信長が、城主として阿坂山山頂の阿坂城を守っていた北畠家の重臣、大宮入道含忍斎を攻略する際の兵火に罹り、社殿と古記録の全てを焼失したという。

どちらにしろ、北畠氏滅亡の後に再建されたが管理する者もなく、江戸時代前期の元禄3年(1690年)に奥村要人という社人が現れた。

明治41年(1908年)3月20日に村社に列し、戦後は神社本庁傘下の神社となっている。

なお、「阿佐加藤方片樋宮」の候補地は他に、同市小阿坂町にある同名神社や、津市の加良比乃神社(藤方)、雲出神社(雲出本郷町)がある。
 
【ご利益】
方位除け、交通安全、五穀豊穣、財運、家内安全
阿射加神社(松阪市大阿坂町) - 信長の兵火で焼失もその後再建した元伊勢の一つ
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