北畠親房、顕家、顕信、守親の親子を祀る、北畠氏の東北拠点址の神社
[住所]福島県伊達市霊山町大石字古屋舘1
[電話]024-587-1326

霊山神社(りょうぜんじんじゃ)は、福島県伊達市にある神社。南朝で陸奥平定にあたった北畠親房、北畠顕家、北畠顕信、北畠守親の親子を祀る。明治14年(1881年)創建。近代社格は別格官幣社建武中興十五社の一社。現在は神社本庁の別表神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

北畠親房(きたばたけ ちかふさ 正応6年1月29日(1293年3月8日)-正平9年/文和3年5月10日(1354年6月1日))は後醍醐天皇の側近。著書『神皇正統記』で名高い。東北地方と縁が深く、後醍醐天皇崩御後は吉野朝の指導者となる。その没後、南朝側は急速に求心力を失う。

その子である北畠顕家(きたばたけ あきいえ 文保2年3月2日(1318年4月3日)-延元3年/建武5年5月22日(1338年6月10日))も南北朝時代に南朝方武将として活躍、各地を転戦するが敗死。その伝承地である大阪市には今、阿部野神社が建立されている。

次男の北畠顕信(きたばたけ あきのぶ)は当社地にもっとも縁が深い。霊山城を拠点にして各地で転戦するものの、最後は生死不明で歴史から姿を消している。北畠守親(きたばたけ もりちか)は顕信の次男。

文化14年(1817年)、松平定信がこの地に霊山碑を建てた。明治元年(1868年)、米沢藩の儒者・中山雪堂と医師・西尾元詢が顕家らの英霊を祀る神社の創立の運動を開始。明治9年(1876年)の明治天皇の東北巡幸を機会として、陸奥国府があったことにより建武の新政にゆかりのある霊山が選定される。

明治12年(1879年)11月に創立が請願され、明治13年(1880年)6月、霊山の西方山麓の北畠氏の支城があった地に社殿が造営された。明治14年(1881年)5月11日に鎮座祭が行われ、明治18年(1885年)に別格官幣社に列せられた。

明治期、元会津藩筆頭家老であった西郷頼母が神社の神職を勤め、親族の西郷四郎を養子として育て境内で柔術を教えていたが、四郎は後に上京し講道館の嘉納治五郎に師事し、柔道修業に励んだ。小説や映画で有名な姿三四郎のモデルといわれる。

4月22日の春季例大祭では、顕家が陸奥国府を開くため義良親王を奉じ、多賀城から霊山城に入城した際、一族、郎党の家運隆盛、武運長久を祈って奉納した剣舞が伝わったものといわれる濫觴武楽(らんじょうぶがく)が奉納される。

白鉢巻きに白だすき、袴姿もりりしい少年たちが、太鼓の音に合わせ太刀を天空にかざして進む、古式ゆかしい舞い。

10月10日に秋季例大祭が行われる。

なお、多賀城址には現在、義良親王後の後村上天皇・親房・顕家らを祀る多賀城神社がある。

また、親房の三男・顕能(あきよし)は、伊勢北畠氏の祖として、現在は三重県津市の北畠神社で祀られている。

【ご利益】
開運、強運、家運隆盛、武運長久、勝負運、厄除け
霊山神社 - 北畠親房、顕家、顕信、守親の親子を祀る、北畠氏の東北拠点址の神社
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