江戸期に再興された式内社・壱岐国一宮、当時の比定に疑義あり?
[住所]長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触730
[電話]0920-47-5748

天手長男神社(あめのたながおじんじゃ)は、長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 壱岐国 石田郡「天手長男神社」に比定される式内社(名神大社)の参考社。

歴史的な一宮としての壱岐国一宮の参考社。近代社格では村社。「全国一の宮会」に加盟している。

参拝すれば、御朱印を頂ける。主祭神は、天忍穂耳尊天手力男命天鈿女命。『延喜式』神名帳に載る名神大社「天手長比売神社(天手長比賣神社)」、小社「物部布都神社」を合祀している。

天手長比売神社には栲幡千々姫命稚日女命木花開耶姫命豊玉姫命玉依姫命が、物部布都神社には経津主神が祀られている。

福岡県宗像市の宗像大社『宗像大菩薩御縁起』によれば、神功皇后の三韓征伐に際し、宗大臣(宗像大社の神)が「御手長」という旗竿に武内宿禰が持っていた紅白2本の旗をつけた。

これを上げ下げして敵を翻弄し、最後に息御嶋(玄界灘の沖ノ島)に立てたという。天手長男と天手長比売の社名はこの「御手長」に由来するという。

平安時代初期の弘仁2年(811年)、天手長雄神社(あめのたながをじんじゃ)として創建、後に現社名に改称した。

『大日本国一宮記』(『一宮記』)には、当社と天手長比売神社が物部村にあり、当社を壱岐国一宮としたとある。

『一宮記』では天思兼神を御祭神としている。その後、元寇により廃れ、所在も不明となった。

現在の当社は、江戸時代にそれまで「若宮」と呼ばれていた小祠を、平戸藩の国学者、橘三喜が名神大社の天手長男神社に比定したもの。

三喜は、当社の位置する「たながお(たなかを)」という地名から式内社「天手長男神社」は田中触にあるものと推定。

そして、田中の城山竹薮の中に分け入り、神鏡1面、弥勒如来の石像2座を堀り出し、石祠を造って祀った。

延宝5年(1677年)に発見された弥勒如来像には延久3年(1071年)の銘があり、後に重要文化財に指定され、奈良国立博物館に保存されている。

元禄元年(1688年)には松浦藩主の命により社殿が作られた。三喜の式内社の査定は地名に基づいたものが多く、現在の研究では疑問が持たれている。

式内社「天手長男神社」については、芦辺町湯岳興触に興神社があり、興(こう)は国府(こう)のことであると考えられ、境内社に壱岐国総社もある。

そのため、興神社が式内社「天手長男神社」であり、壱岐国一宮であるとする説が有力になっている。

合祀されている天手長比売神社も橘三喜の査定によるもので、当社の対面に旧地がある。しかし、本来の天手長比売神社の所在地は不明。他の論社に、國片主神社がある。

物部布都神社も、「田中触が物部村に属しているから」という理由で比定されたが、近年の研究では渡良浦の国津神社が式内社「物部布都神社」だったとされている。

そうした経緯はともあれ、現在では当社が壱岐国一宮とされ、天手長比売神社、物部布都神社の両社の神々も合祀されている。

【ご利益】
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天手長男神社 - 江戸期に再興された式内社・壱岐国一宮、当時の比定に疑義あり?
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天手長男神社の御朱印