越前松平家による創祀、平成の世にも祟る“長壁様”が存在感示す
[住所]群馬県前橋市大手町3-13-19
[電話]027-231-2031

前橋東照宮(まえばしとうしょうぐう)は、群馬県前橋市、前橋公園内にある神社。全国に100社以上分布する東照宮の一社。全国東照宮連合会に加盟している。

江戸初期の大名、直基系越前松平家初代の松平直基(徳川家康の次男・結城秀康の五なんであるため、家康の孫にあたる)が幕府より最初に与えられた領地、越前勝山(福井県)で、寛永元年(1624年)に創建した神社が由来。

江戸中期、松平家が各地の転勤を経て姫路城より前橋城に入城、大洪水の被害を受け、松平家は一時武州川越(埼玉県)に居住した。その時に川越で現在の社殿が造営された。

江戸末期、前橋城が洪水の被害より復旧し、松平家は川越よりこの前橋の地へ戻る。これに伴い、川越で築かれた社殿は一度解体され、現在の地に運ばれ、明治維新を経て、明治4年に再築された。

御祭神は家康公のほか、木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)、菅原道真公、長壁様(おさかべさま)。

長壁様は、兵庫県姫路市の姫路城内に祀られていた長壁神社、刑部明神。松平家が姫路城から前橋城に入る時に前橋城に勧請されたが、天守に祀ることなく、城の未申の地に祠を建て、長壁大神として鎮めた。これを不服とした長壁大神が祟り、大洪水が起きた、とされる。

姫路城が外観の美しさ以外にも、パワースポットとして人気のある要因がこの刑部明神。もともとは安産の信仰で有名な神として知られるが、大洪水以降、当宮本殿に合祀された。

太平洋戦争末期の昭和20年8月5日、米軍の前橋空襲により前橋の街は殆ど焦土と化したが、長壁様の鎮まる東照宮の社殿だけは火災を免れた。

B29爆撃機12機による空襲で、境内の茶店や社務所は焼失、東照宮の社殿を囲う塀にも焼夷弾が落とされ、燃え広がろうとした時、神社職員が消化に当たるも人手が足りずうろたえていると、何処からともなく提灯を持った十数名の兵隊が現れ、境内を流れる風呂川からバケツリレーをして手際よく消し止めた、と伝えられる。

平成10年(1998年)9月、ある民間企業が前述の「前橋城の未申の地」を取得、当地に残された祠を取り壊して開発しようとしたところ、利根川が増水して河川敷に駐車していた車77台を押し流してしまう。その後、地元住民の説得もあって該当企業は祠には手を付けずに、そのまま残すことにしたという。

【ご利益】
無事長久、開運厄除、除災招福、病気平癒など(公式HP
前橋東照宮 - 越前松平家による創祀、平成の世にも祟る“長壁様”が存在感示す
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