・刊行:1943
・著者:喜田貞吉
・出版:東洋堂

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喜田貞吉(きた さだきち、1871年7月11日(明治4年5月24日) - 1939年(昭和14年)7月3日)は、第二次世界大戦前の日本の歴史学者、文学博士。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた。

独自の日本民族成立論を展開し、日本民族の形成史について歴史学・考古学の立場から多くの仮説を提示。「日鮮両民族同源論」を提出。法隆寺再建・非再建論争では、再建論の論陣を張る。被差別部落研究の先駆者としても評価されている。

喜田貞吉は、「漢籍に見えた倭人記事の解釈」「倭奴国および邪馬台国に関する誤解」なども含め、邪馬台国について、その所在は筑紫国山門郡、現在の福岡県・山門郡に比定している。なお、「漢籍に見えた倭人記事の解釈」はこちらにも収録されているという。 

卑弥呼は大和朝廷の傘下の九州の王であったが、魏志倭人伝の編者が卑弥呼の本拠地と大和朝廷のそれとを混同、不弥国のはるか南に邪馬台国をもってきたとする「折衷説」を唱えた。いわゆる誤綴合説と呼ばれるもので、後に橋本増吉に引き継がれ、橋本によって発展を見ることになる。

志賀島で発見された金印について、稲葉岩吉が明治44年(1911年)に発表した論文で内藤虎次郎の「倭面土=委奴=邪馬台=大和(これは全てヤマトと呼ぶ)」説を受けて、「委奴をヤマトと呼ぶべき」と主張したことについて、倭面土国は倭奴国と同じものであるという考えは、ただ発音が似ているというだけで何の歴史的な証明もないと反論した。

大正5年(1916年)、「遺物遺跡上より見たる九州古代の民族に就いて」の中で考古学的遺物について言及しており、卑弥呼の墓を北九州の円墳ではないか、とした。 

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