・刊行:1974
・著者:三宅米吉
・出版:築地書館
・『日本考古学選集〈1〉三宅米吉集 (1974年)』をアマゾンで購入
三宅米吉は「邪馬台国について」なども含め、邪馬台国論争において、邪馬台国の位置を「畿内」に比定している。
金印研究でも有名であり、「漢委奴国王印考」(『史学雑誌』第三編第十七号、明治25年12月)において、志賀島で発見された金印について、それ以前までは「委奴」はイトと読み、伊都国のことという考え方が主流だったが、「漢の委の奴の国王」という読み方を指摘、後世それが普及した。
「邪馬台国について」(『考古学雑誌』第十二巻第十一号、大正11年7月)では、魏志倭人伝の南は東の誤り、瀬戸内行路を提唱した。ほぼ同じタイミングで、畿内説ながらも笠井新也、山田孝雄がそれぞれ日本海航路を提唱していた。
陸行1カ月については、陸行1日の誤写と見る。
【関連記事】
・【邪馬台国論争】今までの研究・論争まとめ - 畿内説
・著者:三宅米吉
・出版:築地書館
・『日本考古学選集〈1〉三宅米吉集 (1974年)』をアマゾンで購入
三宅米吉は「邪馬台国について」なども含め、邪馬台国論争において、邪馬台国の位置を「畿内」に比定している。
金印研究でも有名であり、「漢委奴国王印考」(『史学雑誌』第三編第十七号、明治25年12月)において、志賀島で発見された金印について、それ以前までは「委奴」はイトと読み、伊都国のことという考え方が主流だったが、「漢の委の奴の国王」という読み方を指摘、後世それが普及した。
「邪馬台国について」(『考古学雑誌』第十二巻第十一号、大正11年7月)では、魏志倭人伝の南は東の誤り、瀬戸内行路を提唱した。ほぼ同じタイミングで、畿内説ながらも笠井新也、山田孝雄がそれぞれ日本海航路を提唱していた。
陸行1カ月については、陸行1日の誤写と見る。
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