・所在地:大阪府羽曳野市誉田6丁目
・時 期:4世紀後半
・時 代:古墳時代中期
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:-
【概要】
古市古墳群の一つで、第十五代応神天皇の陵とされる誉田御廟山古墳の東側に食い込むように隣接している。先にこちらの古墳ができ、30-50年後に誉田御廟山古墳ができたとされる。誉田御廟山古墳の被葬者が応神天皇であれば、この古墳の被葬者はその近しい人で、相応の影響力があった人物だと考えられる。
標高25メートルの山林および原野に立地しており、東側水田からの比高は0メートル。周濠をともなう。周濠を含んだ総長は140メートル、墳丘長は110メートルの規模。
後円部は、径73メートル、高さ10.1メートル、頂径は12メートル。前方部は幅60メートル、長さ50メートル、高さ8.6メートルで、前方部と後円部の高差は1.5メートル。くびれ部の幅は46メートルで外表施設としては葺石が全面を覆っている。
この古墳を避けるように築かれた誉田御廟山古墳。応神天皇がそこまで遠慮しなければならない人物、ということかもしれないが、古事記を読み解いても、それに該当する人物はごく限られるように思われる。
世界遺産への登録を進めている百舌鳥・古市古墳群のリストにおいて、「二ツ塚古墳(ふたつづかこふん)」として、前方後円墳(110m)、NO.F23で設定されている。百舌鳥・古市古墳群のリストにおける古市古墳群のリストも参照。
【関連サイト】
・二ツ塚古墳 - Wikipedia
【関連記事】
・百舌鳥・古市古墳群 - 大阪初の世界遺産登録を目指す、世界に誇る古事記時代の建造物群
・時 期:4世紀後半
・時 代:古墳時代中期
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:-
【概要】
古市古墳群の一つで、第十五代応神天皇の陵とされる誉田御廟山古墳の東側に食い込むように隣接している。先にこちらの古墳ができ、30-50年後に誉田御廟山古墳ができたとされる。誉田御廟山古墳の被葬者が応神天皇であれば、この古墳の被葬者はその近しい人で、相応の影響力があった人物だと考えられる。
標高25メートルの山林および原野に立地しており、東側水田からの比高は0メートル。周濠をともなう。周濠を含んだ総長は140メートル、墳丘長は110メートルの規模。
後円部は、径73メートル、高さ10.1メートル、頂径は12メートル。前方部は幅60メートル、長さ50メートル、高さ8.6メートルで、前方部と後円部の高差は1.5メートル。くびれ部の幅は46メートルで外表施設としては葺石が全面を覆っている。
この古墳を避けるように築かれた誉田御廟山古墳。応神天皇がそこまで遠慮しなければならない人物、ということかもしれないが、古事記を読み解いても、それに該当する人物はごく限られるように思われる。
世界遺産への登録を進めている百舌鳥・古市古墳群のリストにおいて、「二ツ塚古墳(ふたつづかこふん)」として、前方後円墳(110m)、NO.F23で設定されている。百舌鳥・古市古墳群のリストにおける古市古墳群のリストも参照。
【関連サイト】
・二ツ塚古墳 - Wikipedia
【関連記事】
・百舌鳥・古市古墳群 - 大阪初の世界遺産登録を目指す、世界に誇る古事記時代の建造物群
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