・所在地:大阪府太子町山田

・時 期:7世紀
・時 代:古墳時代末期
・形 状:方墳
・特 徴:-
・指 定:宮内庁治定

【概要】
宮内庁により「磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)」として第三十三代推古天皇の陵に治定されている。

東西63メートル、南北56メートル、高さ12メートル、空壕幅7メートルの方墳で、古墳時代末期に造られたと見られる。

古事記には、「御陵は大野岡上(おおののおかのうえ)、後に科長大陵(しながのおおみささぎ)に移された」とあり、もとは推古天皇の子であるタケダが眠るとされる植山古墳(奈良県・橿原市)に合葬された後、この古墳にタケダの遺骸とともに遷された、とされる。

そのため、この古墳は推古天皇とタケダの、二つの石室があると推定される。平安時代に盗掘された、とされる。平成3年(1991年)に宮内庁の天皇陵保全事業の一環として、非公開で整備作業が行われたが、状況は不明。

地元には南東200メートルに位置する双方墳の二子塚古墳こそが本当の推古天皇とタケダの合葬陵であるとする言い伝えがあるという。また、「山田」は古墳のある地名に由来し、地元住民から「山田古墳」と呼びなわされていたと言われる。

推古天皇は、天皇に即位したことが確実な日本初の女帝。古事記には、終盤、天皇の系譜を語る中で登場するのみで、具体的な事績などは伝えられていない。

なお、推古天皇の夫に当たる第三十代敏達天皇の陵は太子西山古墳に治定されている。また父の第二十九代欽明天皇の陵は梅山古墳(奈良県・明日香村)とされる。実兄である第三十一代用明天皇の陵は春日向山古墳(大阪府・太子町)に、実妹であるオオトモの墓は押坂内墓(奈良県・桜井市)に、それぞれ治定されている。

【関連サイト】
山田高塚古墳 - Wikipedia

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