・所在地:大阪府堺市上野芝町4丁目
・経緯度:北緯34度55分02.65秒 東経135度47分41.67秒

・時 期:5世紀
・時 代:古墳時代中期
・形 状:前方後円墳
・特 徴:消滅
・指 定:-

【概要】
かつて存在した、古墳時代中期の前方後円墳。第十七代履中天皇の陵に「百舌鳥耳原南陵」として治定されている上石津ミサンザイ古墳の近くにあった。陵墓や史跡等に指定されていなかったことから、戦後の宅地造成で消滅した。

墳丘長168メートルで、百舌鳥古墳群では第5位、全国でも第54位の大きさだった。墳丘は三段築成、くびれ部には造り出しがあり、周濠がめぐっていた。

1949年(昭和24年)に墳丘が削られ、周濠も埋め立てられ、地上から姿を消した。その時の調査で、墳丘に葺石・埴輪列が確認された。

また、前方部に4基、後円部に4基の粘土槨が確認され、そのうち遺体が埋葬された痕跡が認められたのは、前方部・後円部各1基のみ。

埋葬施設は高野槙製の木棺であ、副葬品として、勾玉、管玉、櫛、銅鏡、鉄製の甲冑、短甲、刀剣、手斧、鎌、鋸、鉗(かなはし)などが多数出土。特に刀剣は300口を超えた。

また、かろうじて残っていた墳丘の裾部も、1986年(昭和61年)の宅地造成工事により全て削り取られてしまった。この時、堺市教育委員会により、墳丘の裾部の発掘調査が行われ、古墳の造営方法が確認された。

戦後に破壊された古墳として最大規模であり、現在は、道路の形状に輪郭の痕跡を残すのみ。

なお、かぶと塚古墳がこの古墳の陪塚ではないか、とされている。

【関連サイト】
百舌鳥大塚山古墳 - Wikipedia