・所在地:三重県亀山市川崎町8-5

・時 期:4世紀後半
・時 代:古墳時代中期
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:宮内庁治定

【概要】
宮内庁により「能褒野墓(のぼののはか)」として第十二代景行天皇の皇子ヤマトタケルの墓に治定されている。

墳丘長90メートル、後円部径54メートル・高さ9メートル、前方部幅60メートル・高さ6.5メートル、4世紀後半、つまり古墳時代中期の築造と考えられている。周囲に十七基の円墳が存在し、陪塚とされているが、これらは古墳時代後期のものと考えられている。

治定までには二転三転あった。Wikipediaに詳しい。明治16年(1883年)には地元有志により陵墓横に神社の創建が企画され、明治28年(1895年)に能褒野神社が完成した。昭和34年(1959年)の伊勢湾台風で後円部前部の巨木が倒れた際、根元から鰭付朝顔形埴輪と器財埴輪の円筒部一点が出土した。

ヤマトタケルは東国遠征からの帰還中、伊吹山の神退治を侮り、瀕死の重傷を負う。その後、能煩野まで来たが同地で薨去。「大和はまほろば」「大和の青垣」などの有名な歌もここでほぼ辞世の歌として歌われた。

その後白鳥となって飛び立ったという伝説があり、古事記にも舞い降りた地に陵を造成したとあるため、宮内庁では軽里大塚古墳(大阪府・羽曳野市)、大和琴弾原古墳(奈良県・御所市)をともに「白鳥陵」に治定している。日本書紀の記述を参考に、宮内庁では三陵(亀山市の日本武尊能褒野墓、御所市の日本武尊琴引原白鳥陵、羽曳野市の日本武尊白鳥陵)を治定していると思われる。

ただし、この古墳だけは「陵」ではなく、「墓」。古事記などではヤマトタケルは即位しておらず、あくまでも皇子なので、用法としては「墓」が正しい。

なお、父である景行天皇の陵は渋谷向山古墳(奈良県・天理市)に、母イナビノオオイラツメの陵は日岡陵(兵庫県・加古川市)に、実兄であり、古事記では自身が殺したとされるオオウスの墓は大碓命墓(愛知県・豊田市)に、実弟のカムクシの墓は神櫛王墓(香川県・高松市)に、異母兄弟である第十三代成務天皇の陵は佐紀石塚山古墳(奈良県・奈良市)に、子である第十四代仲哀天皇の陵は岡ミサンザイ古墳(大阪府・藤井寺市)に、それぞれ治定されている。

また、最愛の叔母ヤマトヒメの墓は尾上御陵(三重県・伊勢市)が宮内庁によって管理されている。

なお、熱田神宮(愛知県・名古屋市)では、創祀者とも言うべき、ヤマトタケル妃ミヤズヒメの陵を、熱田神宮北西数百メートルにある断夫山古墳とし、また熱田神宮の西方、断夫山古墳の南方にある白鳥古墳をヤマトタケル陵としており、現在も毎年5月8日に御陵墓祭を行なっている。

【関連サイト】
能褒野王塚古墳 - Wikipedia

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