・所在地:奈良県北葛城郡王寺町本町3-4-25
・経緯度:北緯34度58分95.23秒 東経135度70分21.70秒

・時 期:-
・時 代:-
・形 状:山形墳
・特 徴:-
・指 定:宮内庁治定

【概要】
宮内庁により「片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ」として第七代孝霊天皇の陵に治定されている。古事記では「片岡馬坂上」とある。後世に所在は失われ、江戸時代の元禄の探陵で現陵に治定された。

公式形式は山形墳。自然の丘を利用して作られた陵墓のようだ。その他、規模などは一切分かっていない。第二十五代武烈天皇の「傍丘磐坏丘北陵」に治定されている傍丘磐坏丘北陵古墳と、第二十三代顕宗天皇の「傍丘磐坏丘南陵」に治定されいる傍丘磐坏丘南陵古墳(いずれも奈良県・香芝市)とともに、「片岡三陵」と呼ばれている。

名称は、傍丘磐坏丘南陵古墳(奈良県・香芝市)に治定されている顕宗天皇の「傍丘磐坏丘南陵」と対応したものであるが、古事記には「片岡之石坏岡」とあるだけで、日本書紀の記述も含め、南北の区別はない。

孝霊天皇は父が第六代孝安天皇。子に第八代孝元天皇がいるほか、皇女として、箸墓古墳(奈良県・桜井市)の被葬者として比定されており、卑弥呼、かもしれないとされるヤマトトモモソヒメがいる。

古事記においては、吉備を平定したオオキビツヒコワカヒコタケキビツヒコがそれぞれ別の母の皇子として記載されている。オオキビツヒコは吉備津彦命とされ、史上での四道将軍における一人。古事記では三道将軍であり、オオキビツヒコは含まれない。

オオキビツヒコ、つまり吉備津彦命は温羅(うら)という鬼を討ったという伝承が岡山県を中心として広く知られており、桃太郎のモチーフになったことで有名。

やはり自身の事績はあまり伝わらないため、欠史八代の一人とされる。

なお被葬者とされる孝霊天皇の父・孝安天皇の陵は玉手丘陵上古墳(奈良県・御所市)に、子の孝元天皇の陵は中山塚1-3号(奈良県・橿原市)に、皇女ヤマトトモモソヒメは上述の通り箸墓古墳に、皇子オオキビツヒコの陵は中山茶臼山古墳(岡山県・岡山市)に、それぞれ治定されている。

関係は、天皇家の系譜に詳しい。

【関連サイト】
片丘馬坂陵
孝霊天皇片丘馬坂陵