・所在地:滋賀県東近江市市辺町1014

・時 期:-
・時 代:-
・形 状:円墳
・特 徴:-
・指 定:宮内庁治定

【概要】
第十七代履中天皇の皇子イチノベノオシハの墓「磐坂市辺押磐皇子墓」。

磐坂皇子、磐坂市辺押羽皇子、天万国万押磐尊、市辺之忍歯王、市辺忍歯別王、市辺天皇命などとも。古事記では、一緒に狩りに行った大長谷命(後の第二十一代雄略天皇)の不興を買い、有無を言わさず惨殺され、遺骸を放り置かれた、とある。

雄略天皇の魔手から逃れるべく、イチノベノオシハの遺児オケノミコとヲケノミコは逃亡、結局播磨まで達し、身を隠す。雄略天皇亡き後しばらくして、皇位を継承できるものが不在となった時、この二人の兄弟がたまたま発見され、都に戻され、弟のヲケノミコが即位、第二十三代顕宗天皇となる。ちなみに兄オケノミコは弟の跡を継いで即位、第二十四代仁賢天皇となる。

顕宗天皇は父の遺骸を探し求め、その場所を知っていた媼の言葉通りに見つけて回収(媼はこの功で置目老媼という名を賜る)、墓を築造した、とある。それがこの「磐坂市辺押磐皇子墓」。

ただし、「磐坂市辺押磐皇子墓」は二つの墳丘からなっている。これは、日本書紀などで、イチノベノオシハが惨殺された時、従者の佐伯部仲子が皇子の亡骸を抱えて泣いていたので、雄略天皇はこれも殺す。

日本書紀でははっきりとイチノベノオシハと大長谷命の二人の確執が皇位継承に基づくものと示唆される形の対決の構図になっている。

後に顕宗天皇が父の遺骸を見つけた時、仲子のものと区別ができなかったために、二つの墳丘を築いた、という話に基づき、二つの墳丘が作られた。

二つで一つの墓、と言われるが、一応、東側の大きい方がイチノベノオシハのもの、西側の小さな方が仲子のもの、とされる。

ただし、かつてイチノベノオシハの墓を、同市木村町のケンサイ塚古墳(円墳・消滅)や妙法寺町の熊の森古墳(前方後円墳)に比定する異説もあった。

父の履中天皇の陵は上石津ミサンザイ古墳(大阪府・堺市)に、妹のイイトヨノイラツメの陵は北花内大塚古墳(奈良県・葛城市)に、それぞれ治定されている。

また、子の仁賢天皇の陵はボケ山古墳(大阪府・藤井寺市)に、憲宗天皇の陵は傍丘磐坏丘南陵古墳(奈良県・香芝市)に、それぞれ治定されている。

【関連サイト】
磐坂市辺押磐皇子墓 - 城とか陵墓とか