奈良県橿原市大久保町71−1
北緯34度49分75.11秒 東経135度78分79.64秒
訪問日:2014年10月16日午前
橿原神宮の北の鳥居から出た道を左に折れて北上して間もなく、左手に見えてきました。
古事記に、137歳で亡くなり、「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」、つまり御陵は、畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にありと記されている神武天皇陵、畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)です。
畝傍山を中心にすると、北東がこの御陵、南東が橿原神宮、つまり古事記に「畝火之白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」とある畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)ということになります。
考古学名は四条ミサンザイ古墳(山本ミサンザイ古墳、神武田古墳)。
参道入り口右手に、石碑が立てられています。 参道を進みます。広々としており、両側の緑も鮮やかで、清々しい。右に緩やかに曲がっていきます。 はるか彼方に拝所と思われるものが見えるところまで来ました。長い長い参道です。 拝所がだいぶはっきり見えてきました。 壕(水量はほとんどありませんでしたが)と思われる橋を渡り、拝所までもう間もなく。 拝所前の広場に到着。ここも広々としています。 拝所を望みます。 係りの人が整備していました。左側から。 右側から陵墓を望みます。 お参りを済ませて、また長い参道を戻り、入り口付近まで戻りました。また北上しますので、先ほどとは別の角度から石碑を撮影。 江戸時代、水戸学や本居宣長の出現を待つまでもなく、天皇家を立派にすることで幕府の権威を高めようとする動きの中で、中世にはすでに場所が分からなくなっていた神武天皇陵をはじめとする歴代天皇陵墓の治定作業が始まっており、初代天皇ということで、かなり力を入れて探し、整備された経緯があるようです。
しかし当時治定されたのは、畝傍山から東北へ約700メートルの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった、とのこと。ここは現在、第二代綏靖天皇陵に治定されているところです。
ここでも天皇陵の取り違いが発生していたのですね。しかし、それでは伝承と比べて畝傍山からいかにも遠く、山の上ではなく平地にあるので、福塚よりも畝傍山に少し近い、現在の「ミサンザイ」あるいは「ジブデン(神武田)」というところにある小さな塚が本当の神武天皇陵なのではないか、ということになり、文久3年(1863年)に現在地に落ち着いたようです。
毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっているそうです。
当日も、現地の方々と思われる散歩者の方がおられ、今でも親しまれているんだなーという感慨を受けるとともに、上の写真にもあるように人の手による整備が行われていたり、さすがに初代天皇陵、管理が非常に行き届いている、という印象を受けました。 古事記紀行2014 > (2)橿原神宮 > 神武天皇陵 【関連記事】
・【古事記紀行2014】(2)初代神武天皇ゆかり、橿原神宮は押さえたい!
・神武天皇像 - 弓矢を持つも軽装、顔も穏やかで豪華な首飾りが映える
・神武帝図 - 金の鳶がまばゆい光放つ、天皇というよりは完全に武人
北緯34度49分75.11秒 東経135度78分79.64秒
訪問日:2014年10月16日午前
橿原神宮の北の鳥居から出た道を左に折れて北上して間もなく、左手に見えてきました。
古事記に、137歳で亡くなり、「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」、つまり御陵は、畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にありと記されている神武天皇陵、畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)です。
畝傍山を中心にすると、北東がこの御陵、南東が橿原神宮、つまり古事記に「畝火之白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」とある畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)ということになります。
考古学名は四条ミサンザイ古墳(山本ミサンザイ古墳、神武田古墳)。
参道入り口右手に、石碑が立てられています。 参道を進みます。広々としており、両側の緑も鮮やかで、清々しい。右に緩やかに曲がっていきます。 はるか彼方に拝所と思われるものが見えるところまで来ました。長い長い参道です。 拝所がだいぶはっきり見えてきました。 壕(水量はほとんどありませんでしたが)と思われる橋を渡り、拝所までもう間もなく。 拝所前の広場に到着。ここも広々としています。 拝所を望みます。 係りの人が整備していました。左側から。 右側から陵墓を望みます。 お参りを済ませて、また長い参道を戻り、入り口付近まで戻りました。また北上しますので、先ほどとは別の角度から石碑を撮影。 江戸時代、水戸学や本居宣長の出現を待つまでもなく、天皇家を立派にすることで幕府の権威を高めようとする動きの中で、中世にはすでに場所が分からなくなっていた神武天皇陵をはじめとする歴代天皇陵墓の治定作業が始まっており、初代天皇ということで、かなり力を入れて探し、整備された経緯があるようです。
しかし当時治定されたのは、畝傍山から東北へ約700メートルの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった、とのこと。ここは現在、第二代綏靖天皇陵に治定されているところです。
ここでも天皇陵の取り違いが発生していたのですね。しかし、それでは伝承と比べて畝傍山からいかにも遠く、山の上ではなく平地にあるので、福塚よりも畝傍山に少し近い、現在の「ミサンザイ」あるいは「ジブデン(神武田)」というところにある小さな塚が本当の神武天皇陵なのではないか、ということになり、文久3年(1863年)に現在地に落ち着いたようです。
毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっているそうです。
当日も、現地の方々と思われる散歩者の方がおられ、今でも親しまれているんだなーという感慨を受けるとともに、上の写真にもあるように人の手による整備が行われていたり、さすがに初代天皇陵、管理が非常に行き届いている、という印象を受けました。 古事記紀行2014 > (2)橿原神宮 > 神武天皇陵 【関連記事】
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