魏志倭人伝の謎を解く - 三国志から見る邪馬台国 (中公新書)
古事記とも関連(?)しつつ。

邪馬台国論争を見るにつけ、思うことがある。そのほとんど唯一の文献史料である魏志倭人伝。その前提として、これが正確無比に書かれていること。正確無比とまではいわなくても、距離や方角など、多少の修正を必要としながらも、おおむね信用できること。

果たしてそうだろうか。現代でも、中国人というのはそういうものではない、というのは、中国人と付き合えばすぐにわかること。当時ならばなおさらだっただろう。

魏志倭人伝は、それ単独の書物ではない。魏志という書物の中の一節に倭人伝があるに過ぎない。その魏志でさえも、三国志というトータルな書物の一部に過ぎない。

つまり、我々が邪馬台国を語っている時、三国志という書物の、わずか0コンマ何%のものをほじくり回しているに過ぎない。おそらく、三国志の著者、陳寿も1800年後の倭国人がここまで、この魏志倭人伝に固執することになるとは考えなかったはずだ。

中国人が蛮夷の記録に熱心になるわけがない。これがすべての前提だ。熱心になるのであれば、別の理由がある。少なくとも、正確無比の事実を書き並べることが目的だったはずはない。

文字通り中華思想の時代

当時は文字通り中華思想の時代。文字通り、というのは、中国が東アジア世界唯一の文明国だったという意味で。中華思想という言葉の有無はとりあえず度外視して。というのも、現代中国人でも、この中華思想という言葉の存在を知らないので。

中華思想にかぶれている人が、蛮夷の記録、しかも書こうとしている書物の1%にも満たない分量のパートを、精魂込めて、事実を精査して書き記した、と思う方がおかしいのではないだろうか。

もちろん、中国は史家の国。歴史記述に対して、真面目を通り越して頑固、頑固を通り越して頑迷ではあるし、だからこそその記述は信頼できる。しかしそれはあくまでも自国のことについてだけ。それが蛮夷の記録にも該当すると考えるのは、中華思想への理解が足りない。

今の中国人にも言えることだが、当時のこてこての中華思想に凝り固まった中国人が、当時としても、現代としても、日本のために、現代の我々がその当時の日本の歴史を知るために、参考となるようなホントの事実・真実、それを記述しようとしたはずがない。

そもそも女王の国、というところに偏見を感じないだろうか。女性蔑視の儒教(この言葉も後世のもの&中国では通用しない。ただし、当時の考え方を言葉としてあてはめている)の国の史家らしい。そんな女王を擁いている蛮夷の国からも朝貢に来る魏王朝はスゴイ、ということを述べたいがための魏志倭人伝、それが本質なのではないか。

卑弥呼も行っていた朝貢とはこういうもの

そう、この朝貢がポイントのように思われる。ものすごく頻回、しかもいいタイミングで、当時の倭国は中国に朝貢している。この点があまり重要視されないが、それは、明らかに当時の中国官僚の差し金があったのではないか。

「今、朝貢するとイイことあるネ」などと提言する中国役人は、当時いくらでもいただろう。実際イイことがある(見返りがデカい)から当時の倭国人からも信用される。

現在の中国役人も、経済成長だ、ということになれば、GDPをいかに伸ばすか、ねつ造するかを考える。投資誘致にも熱心になる。「今、投資するとイイことあるネ」だ。

現在はそうではなくエコや質だよ、といっても暴走は止まらない。なんせ分かりやすい指標だから。エコだ質だと言って、経済成長が鈍化、マイナス成長などになろうものなら、自分の実績に響くのは必然。

当時、その指標が蛮夷による朝貢だった、と考えると分かりやすい。

経済成長はともかく、朝貢が当時の役人の業績の指標になりうる、ということが理解できてこそ、当時の中華思想への理解に一歩近づく。

どれだけ遠方の蛮夷が中国皇帝の徳を慕って朝貢してくるか、というのが、ある意味中国の歴代皇帝の最重要な関心事の一つだった、といえば言い過ぎだろうか。徳治とはそういうもので、徳がすべて、ということ。国内で徳を示せれば一番いいのだろうが、なかなか難しい。国外からの表敬訪問ほどわかりやすいものはない。

皇帝たるもの、徳を備えていなければならない。残念ながら、経済成長と違って、徳というのは目に見えない。一番わかりやすいものこそ、えらく遠くから(中国人から見て)人間かどうかも分からないような蛮夷による中国訪問、つまり朝貢だった。

中国の価値観として訳の分からない国々、逆に中国と違えば違うほど良い。だからこそ蛮夷なのであって、それが強調できる。訳の分からない蛮夷がやってくる方が、「高徳点」なのだ。

魏志倭人伝を一読すれば、裸だったり、顔や体中に入墨したり(当時の中国では入墨=犯罪者)、あまりよく分からない習俗をもっている、ケモノ一歩手前(というかケモノそのもの)どもの国、というイメージがわかないだろうか。そんなところから朝貢に来たよ、それだけ当時の皇帝は徳を備えていたよ、ということを、魏志倭人伝は言いたかったのだ。

それは言い過ぎ? イヤイヤ、中華思想とはこういうもの。

中国のエゴなんだから

そもそも、中国の書物である以上、程度の差こそあれ、中国のエゴこそが主である、というのは絶対の真実のはずだ。執筆者である中国人が、倭国のことを詳しく記録し、後世に残して参考にさせよう、とは考えなかったはず。そもそも、執筆者も後世の倭国人が自分の著書を読みこなせるとは思わなかったかもしれない。それこそが中華思想。

言葉は悪いが、倭国の記述は適当に流しとこ、ぐらい。少なくとも中国のエゴに資するもの程度にまとめておこか、といったところが本音ではないのか。

三国志も当然のことながら、写本に写本を重ねて伝わってきた。その中でも、魏志倭人伝の写し間違いは多いことが指摘される。当たり前だ。写本するのも中国人、倭国のことなんかに真面目になる中国人は普通、いない。これって、今でも通用する考え方かも。

ともかく、魏志倭人伝を読み解くにはこれが前提になるはずだ。細かい距離や方角で一喜一憂するのは、筆者の陳寿はもちろん、当時の、あるいは現代の中国人にもあまり理解される行為とは思えない。理解されないだけならいいが、真実追求に際して、ほぼ確実に誤った方向に向いているのではないか。

以上のことを考えながら、私は漠然とながら、魏志倭人伝の記述は、参考にはなるが、信用に足るものではない、邪馬台国がどこ、卑弥呼が誰など論じるのはお門違い、と考えていた。

さらに言えば、邪馬台国や卑弥呼が、今知られている古代日本の事象に比定できるかどうかも疑問だ。むしろしなくてもよいのではないか、と考えていた。雰囲気的には魏志倭人伝は九州やその近辺のことを伝えているのかな、という程度。

日本の古代は、考古学の発展を前提にしながらも、古事記の記述で十分再現していける。日本書紀を補足にして使えばイイ。中国の史書の記述は参考価値はあっても、それ以上ではない。

別の話になるが、「倭の五王」も別に無理やり比定することもない。朝貢に来たのは一代か二代かもしれない。それをとりあえず五代にしとこうか、程度のものかもしれない(未考証。ただし、そうした仮説を立てることは間違いとは言えない)。

話しを戻すと、つまり無理やり邪馬台国や卑弥呼を比定しなくても困ることはない、ということ(邪馬台国と卑弥呼で地域振興を考えている皆さんを誹謗するものではありません。あくまでも史実として、どうとらえるか、ということ)。

渡邊義浩『魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国』

そもそも、中華思想をホントに理解すれば、以上のような結論が出ると思うが、邪馬台国論争において、あまりこうした論旨は聞いたことがなかった(そもそも専門家でもなんでもないので、そこまで深く入り込んではいないが)。

一念発起して、探してみた。色々と探していくと、あった。渡邊義浩『魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国』がそれだ。

他にも探せばあるかもしれない。おそらくは陳寿でさえ想像だにしなかった1800年後の倭国の大論争。その歴史も古く、日本人らしく議論も徹底しているので、探せば色々な意見はあるものだ。

渡邊『魏志倭人伝の謎を解く』は、上記の私の見解を痛快に指摘していた。

つまり、当時の中国の「理念」なんだ、と。魏志倭人伝の記述は事実の部分はあるものの、陳寿をはじめとした当時の中国知識人が共通してもっていたであろう儒教の「理念」によって編み出された産物、というのだ。中華思想こそ「理念」そのもの。

渡邊はそれでも邪馬台国を比定しようとし、大和説に動いているが、その点を除けば、私が言いたかったことを、三国志の専門家として、明快に指摘してくれている。中国のことを研究すれば、自ずと回答が出るのではないか、と思っていた通り。

渡邊は、当時の国際関係をも推察し、倭国内に親魏派、親呉派があって、邪馬台国と狗奴国はその代理戦争、という示唆もあり(渡邊は若干否定的)、興味深い。魏の銅鏡はもちろん、呉の銅鏡が日本で出土することがある理由付けにもなる。

魏志倭人伝に書かれた倭国は、女性比率が高い、というのも儒教「理念」であると、渡邊は説く。では、その最たるものとしての女王国という記述こそ、当時の中国の蛮夷に関する「理念」そのものではなかったのだろうか、と個人的には考えたくなる。

魏志倭人伝が倭国に好意的なのは、邪馬台国が親魏派であり、陳寿が三国志を執筆していた当時の西晋、その前の魏、さらに西晋の祖である司馬氏への配慮、なども指摘。ただし、そこまで当時でも蛮夷の情勢がはっきりしていれば、逆に理念が入る隙間がなくなるのではないか、とも思われる。それでも、蛮夷については、事実よりも理念が優先する雰囲気が当時の、そして今の中国にもあるかもしれない。

渡邊は、「親魏」の王号を魏から賜ったのは、蛮夷の中で、西の月氏国と、東の倭国の二つしかないとも指摘。当時の方や距離の考え方を詳述(1万里外が「荒域」など)して、距離に関して、月氏国が西に1万7000里程度だから、倭国も同じ程度(洛陽-帯方郡5000里、帯方郡-倭国1万2000里)にしとこ、みたいな雰囲気があったのではないか、とも示唆している。

これは非常に納得のいくことで、中華思想の極み、というか、それこそが中華思想。倭国に比べて月氏国との付き合いは古い中国(ただし、それ以前の月氏国と、魏の当時の月氏国は別物)が、月氏国の距離を間違えるとは思いづらい。月氏国と同じ距離を倭国に比定しとこうや、というのが案外実際なのかもしれない。

あくまでも理念の問題であって、距離に関しては、事実に比して、「テキトー」ということ。

魏志倭人伝は(多少の事実はありながらも、本質的に当時の、そして今に通じる中国人の)「理念」なんだから、その記述をひねくり回して、事実追求の日本人的生真面目さを発揮しても、あまり得るものがない、というのが、渡邊『魏志倭人伝の謎を解く』を読んで、改めて強く感じたところ。

念のため断っていくが、私が感じたことであって、それが渡邊の結論ではない。

今までも私の感想と、渡邊の指摘は分けて述べてきた(つもりだ)が、誤解が生まれるかもしれない。渡邊の『魏志倭人伝の謎を解く』はもっと学問的で、論理的。ここでは分かりやすく、というかぶっちゃけて紹介した面がある。

今の日本の風潮でいえば、渡邊は大和説の提唱者の一人、と括られてしまうかもしれない。しかし本書はそれが眼目ではない。邪馬台国、魏志倭人伝に興味があるのであれば、是非一読していただきたい一冊だ。

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邪馬台国論争、否定はしないが

神武天皇の出身地が九州であるにもかかわらず、つまりヤマトの原点であるにもかかわらず、ヤマトは一貫してそれを抑えられなかった、だからヤマトタケルの熊襲建暗殺説話があるし、仲哀天皇・神功皇后も熊襲征伐に出かけている。

九州王朝、とまではいわなくても、九州に一定期間、少なくとも継体天皇の御世に磐井の乱が起き、それが鎮圧されるまでの間、かなり強大な権力があり、時には分裂して弱まり、時には統合して一層強まりながらも、そうした形で東のヤマトと併存していたことは間違いないのではないか。

かなり時代は遡るが、神武天皇の東遷も、そんな強大な権力ある九州で今後もやっていくにはさすがにキツイ、というのが動機としてあったのかもしれない。

その九州の長い歴史の中で、実際に女王の国があったとしても不思議ではない。古事記を読んでいても、日本はそこまでそもそもが男尊女卑の国ではないし、女性首長と思われるものも日本には存在していた。

女王を求心力とした連合国が九州に一時期あったのかもしれない。それが、中国の三国志の時代、魏とたまたま接触したために、邪馬台国というその国の名が有名になったのかもしれない。音は似通っているが、それがヤマトと関連しているのかどうかは分からないとしても。

しかし、魏志倭人伝では、出雲や吉備という当時の九州と同程度の力を持っていたかもしれない権力には触れられていない。それらを飛び越してヤマトのことをいきなり記述しているとも考えづらい。

というより、こうして無理やり比定すること自体、そこまで魏志倭人伝は事実の記述として信用に足りるのか、というのが、今回の問題提起。

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