狭岡神社 - ぶっちゃけ古事記
2014年10月17日13時30分、予定通り、というか前日とこの日の早朝の“無謀?”な視察を繰り返したために、フラフラになりながら、大古事記展のプレス内覧と開幕式の取材を終え、急いで荷物をまとめて近鉄奈良駅へ。

そこから一駅、新大宮で下車。さすがに歩いて行く気力はなく、またその後、歩かざるを得ない予定だったので、ここはタクシーで一気に狭岡神社へ。

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知る人ぞ知る、第十一代垂仁天皇の皇后サオビメゆかりの地です。狭穂姫伝承の鏡池(姿見池)がそれです。
狭岡神社 狭穂姫伝承の鏡池(姿見池) - ぶっちゃけ古事記
「鏡池(姿見池)と名付けられたのは沙本毘売(狭穂姫)がその美しい姿をこの佐保の池にうつしたとの謂れによります」

とさらりと現地の看板には書いていました。

いやいやいや、古事記を信じれば2000年前、少なく見積もっても1600-1800年前の話なのですが、こんなさらりでよいのでしょうか?

しかし鏡がなかったか、極めて貴重品だった時代、池に姿を映していた、という伝承、何ともリアルに感じられます。

とまあ、それは置いといて、別の看板には補足の説明がありました。
狭岡神社 狭穂姫伝承碑 - ぶっちゃけ古事記
「沙本毘売(狭穂姫)は開化天皇の孫で、垂仁天皇の皇后でした。兄、沙本毘古はこの佐保一帯の王でありました。不幸にも夫と兄の政争に巻き込まれ亡くなりました。(古事記による)」

先に紹介した開化天皇の系譜が異常に詳細な件、先は煩雑になると思って触れませんでしたが、この兄サオビコとサオビメに連なる、二人の両親や兄弟も詳細に紹介されている、というのもその理由の一つ。

「兄、沙本毘古はこの佐保一帯の王」という記載は古事記にはないはずで、現地に行ってみなければ分からないことがやはりあります。ただ、「不幸にも夫と兄の政争に巻き込まれ亡くなりました」だけでは綺麗事すぎます。

つまり、この狭岡神社の周辺一帯が、垂仁天皇、サオビコ、サオビメの三角関係、愛憎ひしめくドロドロの展開、現天皇の皇后がNTRされる、それも実の兄に、という、古事記きっての逸話の舞台そのもの、ということになるのでしょう。

例えば、サオビコがすでに垂仁天皇の皇后になっていた実の妹サオビメをゲット(NTR)して、垂仁天皇の暗殺をサオビメに教唆したのもこのあたりでしょうか。
サオ - ぶっちゃけ古事記
暗殺されかかった垂仁天皇が事情を知って激怒して、反逆者サオビコを攻めたて、サオビコはそれに応えて稲の城を築き籠城しますが、それもおそらくはこのあたりでしょうか。
垂仁天皇 - ぶっちゃけ古事記
そうであれば、兄サオビコの籠城先に行ってしまったサオビメを何とか取り戻したい垂仁天皇と、自身の子ホムチワケだけを垂仁天皇に預かってもらいたいサオビメの、双方息詰まるやり取り、その後の垂仁天皇のサオビメへの子育て相談などもこのあたりで行われたのでしょうか。
サオビコ - ぶっちゃけ古事記
そして、結局サオビメは兄サオビコに殉じて、やはりこのあたりで亡くなったのでしょうか。

想像(というか妄想?)が膨らみます。
古事記紀行2014 > (9)狭岡神社 - 狭岡神社

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