橿原神宮 - ぶっちゃけ古事記
飛鳥駅に戻り、また近鉄に乗って、橿原神宮前まで戻りました。

初代神武天皇が都した「畝火の白檮原宮」の跡地とされているところに創建された橿原神宮までは徒歩五分ほど。

極めて大規模で、極めてゆったりとしており、そして荘厳。朝が早かったためか参拝客もまばらだったので、余計そう感じたのかもしれません。青々とした畝傍山(うねびやま)も印象的でした(次の写真の後ろの山が畝傍山)。

国旗の掲揚台があるところなど、創建の理由とも深く結びついていそう。
橿原神宮の拝殿 後ろの山が畝傍山 - ぶっちゃけ古事記
それでも、この辺一帯で神武天皇が皇后イスケヨリを迎え、二人の愛の生活が始まって、神武天皇がイスケヨリに愛の歌を送り、三人の子宝にも恵まれた、などの営みが展開されたと考えると感慨深げ。

また、神武天皇崩御後、前妻の子・タギシミミがイスケヨリを強奪して自身の妻とし、直系の子らへの反逆(未遂)などの激動の物語が紡がれた地でもあります。

橿原神宮を後にし、西進して北に折れること、徒歩十分程度でしょうか。神武天皇陵に到着。古事記で「畝傍山の北の方の白檮の尾の上」とされている場所、畝傍山東北陵です。
神武天皇陵「畝傍山東北陵」 - ぶっちゃけ古事記
神武天皇陵がここに治定されるまでにも二転三転あったとか。それでも現在では整備が大変行き届いていました。

神武天皇陵を後にして、さらに北上すると、第二代綏靖天皇陵があります。古事記では「衝田岡(つきだのおか)」とされる、桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)です。
綏靖天皇陵「桃花鳥田丘上陵」 - ぶっちゃけ古事記
異母兄タギシミミの反乱に際して、機先を制して実兄カムヤイミミとともにタギシミミの元に乗り込んで、タギシミミをどうしても殺害できない兄に代わって殺害した、それによって皇位を継承した方。

もともとこの綏靖天皇陵、当初は神武天皇陵ではないかとも目されたことがあるとか。現在の神武天皇陵と比べて一回り以上小さくこじんまりとしています。

神武天皇陵が周辺住民の方々だと思われる散歩者がちらほらいらっしゃったのと比べ、綏靖天皇陵にはまったく人影がなく、ひっそりとしていました。

この辺一帯には、さらに古事記ゆかりの歴代天皇の陵墓に治定されている古墳が多数あります。ただし、いわゆる欠史八代と呼ばれる方々ばかりではあります。今回は時間の関係上回れませんでしたが、いずれは回ってみたいところです。

さて、綏靖天皇陵を後にしてさらに北上、今度はJRの畝傍駅を目指します。ここから桜井線(万葉まほろば線)に乗る予定。いわゆる“まほろば”をたどるルートに入っていきます。
JR桜井線・畝傍駅 - ぶっちゃけ古事記
ただし、時間との勝負ということの中で、今回の道のりで一番のネックが、この1時間に1-2本の桜井線。うまく時間を調整できるかどうかが鍵です。
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