福井県の勝山市教委は2014年6月20日、三谷遺跡(同市昭和町2丁目)から弥生時代後期後半から古墳時代初期(3世紀後半)のものとみられる銅鐸(どうたく)形土製品が見つかったと発表したようです。MSN産経ニュースが報じています

それによれば、福井県内では福井市の林・藤島遺跡に次いで2例目で、時代が限定されたのは初めて。同市教委は、弥生時代から古墳時代への銅鐸祭祀の変遷を考える上で価値のある資料で、今後、青銅製の銅鐸の出土が期待できるとしているようです。

三谷遺跡からは平成12年度の調査では「毛屋」と書かれた須恵器皿(10世紀頃)が出土、2013年には「大聖院」の文字とサイン(花押)を記した木簡が出土しています。大聖院は中世平泉寺を代表する有力坊院のひとつと考えられ、同遺跡は平泉寺から北に約4キロ離れたところに位置しています。

北陸地方に関して、古事記では若狭(わかさ)、高志(こし、越の国)、角鹿(つぬが)などが出てきます。九州で生まれた応神天皇が都に戻った時、同母兄妹による反逆に合い、その反乱軍を鎮圧します。

その時はまだ応神天皇は幼少だったと思われ、母・神功皇后と、その側近の建内宿禰による采配だったと思われます。乱後、建内宿禰は応神天皇を連れて、近江から若狭へ、そして角鹿と訪れます。

ここで遭遇するのが、イザサワケという神。応神天皇との名の交換を持ち掛けられ、その通りにすると、鼻をひしゃがれたイルカが大量に獲れました。

そのイルカの血が大変臭かったので、血浦(ちうら)といい、それが角鹿に転じたということです。現在の敦賀の由来となっています。

この建内宿禰に連れられた応神天皇の行幸は実質的に現地制圧的な意味合いがあるように思えます。天皇みずから出向かなければならないほど、当時の福井県には強大な文化圏が存在していたということでしょう。