忍熊王13.応神天皇
13-1.香坂王と忍熊王の反逆


息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)一行は、こうして大和に帰ることになりましたが、神功皇后は大和に残っていた群臣の心を不安に思って、棺を乗せる船を一艘用意して、筑紫で出産した御子をその船に乗せるという策を講じました。

それに先立って、御子がすでに亡くなったという嘘の噂を広め、都に戻って行ったのです。

それを信じた、香坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)は神功皇后一行を待ち構えました。その前に猟をして、この戦いの勝敗を占ってみました。

おっことぬし縦480px香坂王がクヌギの木に登ると、怒り狂った大きな猪が突然現れ、そのクヌギの根を掘り倒し、あっという間に香坂王を食ってしまいました。軽~い、おっことぬし(by もののけ姫)。

しかし弟の忍熊王はその状況を見ても恐れることなく、軍を進めました。

忍熊王はまず、誰も乗っていないだろう棺の船を襲いました。しかし、船の中からたくさんの兵士が降りてきて、戦いが始まりました。

この時、忍熊王は伊佐比宿禰(いさひのすくね)を将軍とし、神功皇后の御子は難波根子建振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと=タケフルクマ)を将軍としました。

緒戦で忍熊王の軍は破れましたが、山城国(現 京都府)まで退いて態勢を立て直し、そこで両軍が一進一退を繰り広げ、膠着状態となりました。

そこで、タケフルクマは一計を案じて、「神功皇后が戦死されたので、これ以上戦う理由がなくなった」という嘘の意思を忍熊王の軍に伝え、すぐに弓の弦を切って、降参を装いました。

忍熊王の軍の伊佐比宿禰はすっかりその嘘を信じ、やはり弓から弦をはずして、撤退しました。それを見たタケフルクマは、即座に結った髪の中から予備の弦を取り出して、再びそれを弓に張って、追撃しました。

騙し討ちを喰らった忍熊王の軍は逢坂に退いたが、そこでまた両軍は対峙し、戦いました。ついに神功皇后の御子の軍が勝利し、忍熊王の軍を皆殺しにしました。

何とか難を逃れた忍熊王と伊佐比宿禰はさらに逃げて、追撃をかわしつつ、琵琶湖に船を浮かべました。そこで忍熊王が詠んだ歌。

さあ、わが弟よ。
建振熊命にこれ以上ひどい目にあわされないよう、
鳥のように近江の湖に潜ってしまおう。

そうして、琵琶湖に身を投じ、二人とも死にました。

※画像は、「忍熊王」Google画像検索結果のキャプチャー。

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【関連キャラ】
神功皇后 - 三韓征伐の英雄は息子を溺愛する魔性の女?
応神天皇 - 自身の登場シーンがあまり多くない天皇
おっことぬし - 古事記に時々登場するイノシシな神

【古事記の神・人辞典】
神功皇后
応神天皇
タケフルクマ

香坂王
忍熊王
伊佐比宿禰

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